純白の影 - 2
オーカー宮は王国が郊外に保有する離宮の一つだ。
正門に馬車が止まると、かねての取り決めの通り、俺は馬車から素早く降りる。正門とは反対側の戸から、ぐるりと回って正面側へ。
辺りにはもう何人も貴族や従者たちがいた。その視線が集まる中心、馬車の戸が開く。
甘やかな香り。
それに続いて、白いドレスのエルジェリーザ・ムヌメル・クルムヴァルダーが姿を現した。
俺は恭しく手を差し出し、その降車を助ける。
その後は左腕を軽く曲げる。すると、エリーザがそこに手をかける。
正門から離宮までの前庭をエスコートすること。
それが、バゼラードとしての最初の仕事となった。
(なるほど)
エリーザが一歩進むたび、辺りがにわかに色めき立つのを感じながら、俺は変に冷静な頭で納得をする。
俺の左、横に並んだエリーザは、完璧なまでに美しい。朝の入浴に始まった彼女の身だしなみは、片手では収まらない数の侍女と美容師、化粧師が寄ってたかって何時間もかけられていた。
俺も一介の男だ。そうして作り上げられた彼女の手を取り導くという行いに、当然緊張はする。だがそれでも、彼女の入浴に同席させられた時の緊張に比べれば大したものではない。
(あの荒療治も、多少は効果があったのかもしれないな)
もっとも、俺とエリーザの後ろに続くポピーのことを考えると、内心が少し波立つ。衆目がなければ、やはり彼女は俺に厳しい視線を送っていただろうか。
「……なんで男の人?」
不意に、訝しむような言葉が耳に入った。
「誰? 王前の
「あの男の肌色……どこの国の人かしら。まさか大陸外?」
あれこれと飛び交う憶測の台詞は、しかし程なく収まる。エリーザのドレスの紋章が見え始めるからだ。
「丘と山羊と西の太陽……クルムヴァルダーの家紋……!」
「じゃああれが、次期公爵候補の……『天瞳の君』?」
「あの男はバゼラードか……あのような異国の者を従えるとは」
(本当にエリーザの話していた通りに進むな……)
『折角の機会だから、目立っておきましょう』
まさしくそれがエリーザの狙いだ。成人したばかりの小娘でなく、既に公爵となるべく準備を進めている女主人というイメージを、鮮烈に広げること。
『社交界はイメージが事実になっていく場よ』
朝、今日唯一の食事だというスープを口につけて(デビュタント・ドレスは締め付けが強く、胃にものが入らないのだという)、エリーザは俺にそう語った。
『話したくなるエピソードが一つあれば、それはどんどん大きくなっていって、なかなか止まらない。誰かが口にした軽率な予想が、約束された未来にすらなる。噂を否定することは、その噂を流した人を嘘つきにしてしまうことだもの』
もちろんそれは極論だけど、と付け足しつつも、決して冗談だとは言わなかった。
『社交界という水槽で、私が公爵になる未来を育て始めるわ。もちろんそのためには、バゼラードにも完璧でいてもらわないといけない。動揺も緊張もなく、頼もしく私を連れていって。できる?』
エリーザの言葉を内心で反芻しながら、静かに歩みを進める。
(決まった速度、決まった歩幅……目印の木の横で、ぴったり右足を踏み出していることを確認)
信じがたいことだが、離宮までの数十メートルの道程の歩き方にすら、正しいマナーがあるのだという。離宮に入る時は右足からとか、特定の石畳は不吉だから踏むべきではないとか、昔の王が気に入っていたあの像の前の線を踏むのは無礼だとか。
『ふつうはそんなに神経質にならなくて良いのだけれど、今回は伝統派貴族に仲間だと思ってもらうことが目的だもの』
エリーザはそんな、迷信じみたマナーについても詳しかった。
『全部をカバーすることはないわ。重要な所だけ押さえられるようにするから……堂々と私を連れて行ってね』
「お待ちしておりました。エルジェリーザ様」
離宮の手前、白髪の男性が折り目正しく礼をする。細身ながらまっすぐ力強く立っているものだから、近くからその顔を見るまで彼が老人だとは気付けなかった。
「アルブレヒトさん。出迎えありがとう」
「いいえ。斯くも目出度き日にエルジェリーザ様をお出迎えできること、光栄に存じます」
(伯爵の執事騎士……)
離宮に入ったタイミングで足を止める。エリーザは俺の腕から手を離し、一歩前へ。代わりにポピーが俺の横に立ち、以降はアルブレヒトに続く形で、控え室に向かう。
一仕事を終えた所で息をつきたくもなるが、まだ気を抜いてはならない。離宮内にも人の目はあり、特に廊下で油断をするなどあってはならないこと……であるらしい。
アルブレヒト執事と気さくな様子で話すエリーザに、ポピーと肩を並べて歩く。
案内された控え室は、大きな鏡と由緒のありそうな調度品が飾られた、立派な一室だった。迎えのメイドが人形のように頭を下げる。
「後ほどニコルス様がご挨拶に伺います」
「ありがとう、アルブレヒトさん。……皆さんも今のうちにお休みを取っておいてくださる? 後で色々とお願いすることになると思うから」
エリーザの言葉を受け、アルブレヒトが、そして元々控え室にいたメイドたちが退室する。
この控え室に残ったのは、エリーザとポピー、そして俺のみ。
「……はあっ」
俺は肩を落とし、緊張した肺に滞っていた空気を吐き出す。
「とりあえず、今は大丈夫……なんですよね? エリーザ様」
「ええ。椅子に座っても構わないわよ」
「いや、そこまででは……はぁあ……」
「ちゃんとできていたわ、タスク。ねえ、ポピー?」
「……少々動きに硬さはありましたが、及第点でしょう」
「もう、厳しいんだから……あら、見て」
エリーザはドレッサーに飾られた花に触れた。赤く丸っこい、鮮やかな花。
「ポピーの花ね。知ってて飾ってくださったのかしら?」
「偶然でしょう。それに、私は……」
「ふふ、ごめんなさい。分かっているわ」
花弁を撫でていた指先が、ポピーの髪に触れた。
「今日の薔薇は何色かしら?」
「……青薔薇です」
「いいわね。楽しみ」
エリーザとポピーの仲は緊密で、時折こうして俺には分からぬ言葉で囁きを交わす。俺にできるのは、それを静かに見守るだけだ。
(雑談にまで、どういう意味だとずかずか踏み込むのも妙な話だしな。早く理解できるようにならないと……)
それからほどなくして、ファーケイ伯爵が控え室を訪れる。恰幅の良い壮年の男性。髪も髭も糊付けしたように左右対称にセットされている。
「君が
エリーザと挨拶を交わすと、壁際に直立する俺へ手を差し伸べてきた。俺は握手に応じる――相手から求めてきた場合は適切に応じ、それ以外は一切動かない。バゼラードとしての基本対応だ。
「良く使われた手をしている。歴戦だな」
「ありがとうございます」
「バゼラードの調達をこの王前の祝賀会に間に合わせた上で、これほど立派な物を従えているとなれば、皆君を一目置くだろう」
「過分ですわ、伯爵」
エリーザは美しく笑った。
「運が良かっただけですもの。それに、まだまだ磨きませんと」
「良いじゃないか。たとえ今は
俺の上腕辺りを叩いて、伯爵は俺の前から離れた。それからポピーにも声をかけると、エリーザと何やら込み入った話をし始める。
(参列する貴族……参加者……音楽? 天気? ダンスパートナー? 何が重要でどういう意味があるのかさっぱり分からないな……)
必要なことならば後から教えられるだろうが、それでも至らぬ気持ちにはなる。はたしてどれだけのことを、エリーザは背負っているのだろうか?
伯爵が控え室を辞して少し後、離宮のメイドたちと入れ替わりで、俺は室外へと出た。ポピーとエリーザは、会に向けた最後の準備をするのだという。
『別に準備に同席しても差し支えはないけれど……少し見せびらかさせて?』
そう言って俺を廊下へ出したエリーザの意図を、俺はすぐに理解する。
「あっ……出てきた」
「あれが例の……」
俺を遠巻きに見ながら、ひそひそと囁き合う気配。エルジェリーザ公爵嫡女が既にバゼラードを持っているという、噂の真偽を確かめに来た連中だ。祝賀会に参列する貴族の親族や友人、従者など。
概して彼らは身軽な噂好きであり、社交界の雰囲気を醸成する力を持つという。
「立派な体してるな……力も強そうだ」
「エルジェリーザ様って確か18歳よね。複雑な生まれで遅咲きの方で、いくら嫡女でも
「ファーケイ伯が後見するだけのことはあるな」
「あんな方と毎晩……」「あの腕に抱かれて……!」
……妙な風聞も混ざっているようだが、エリーザの望む結果は出ることだろう。
話しかけられたりしたときの対応も教えられていたが、今日それが役立つことはなかった。
控え室からメイドが出てきて、辺りを取り巻いていた噂好きを追い払う。それから、エリーザが姿を表した。両手を前に重ね、しずしずと歩く。
(ここから祝賀会、交流会、舞踏会か……)
穏やかに笑ったその横顔は、しかし俺を一瞥もすることはない。この後に待ち受けるすべてのことを、彼女はきっと考えているのだ。
エリーザに続き、深い青色のドレスを着たポピーも姿を現す。
(月並みだがエリーザが頑張れることを祈るしか…………――んッ!?)
思わず目を剥き、首を動かしポピーの方を見てしまった。
辺りからほとんど人が払われており、残る者もエリーザの方を見ているのが幸いだったが、そうでなければバゼラードとして初失点である。
(ポっ、ポピーも……ドレスを……!?)
メイド服のモノトーンとはまったく違う鮮やかな色彩。普段の恰好ではきっちりと覆われている首から肩にかけてを露出した姿。頭にあるのも髪をまとめるヘッドドレスではなく、ドレスに合わせた青い薔薇のコサージュ――
(痛つ)
腿の辺りに刺すような痛み。それから少しして、ポケットの中に何かが落ちる感触がある。
(……何だ?)
ポケットの中を探ろうとすると、ポピーがじろりと睨むような目で俺を見上げていることに気付く。
その姿にまたどきりとしそうになるが……彼女の喉の辺りに不自然な
(魔法で針を糸にして、それを伝って俺のポケットに何か入れた。あのドレスの影なら、確かに誰にも見咎められない。刺したのは……俺にそれを伝えるためか)
『余計な』『動きは』『しないように』
『エリーザ様を』『貶めること』『許しません』
(……分かってるよ)
俺は二人を見送り、周囲の目線が離れたタイミングでポケットに手を入れる。
(針と……このモサついた手触りは……"地下紙"か)
ポピーが愛用する手帳のページで、彼女は気軽にそれを破いてメモ代わりにする。もう一度周囲からの視線がないことを確かめ、中を見る。
『ヴィルナムの手の者の気配がある』
『仕掛けてくるなら夜の舞踏会』
『今のうちに離宮の構造を把握して』
(なるほど)
ポケットの中へ紙片を戻し、俺は歩き始める。
どうやら、直立しているよりは俺の能力が活かせる仕事がやってきそうだ。
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