2.統一暦426年、ベレーブック王国成人祝賀会 / 純白の影
純白の影 - 1
左手首の
本当は右手でその存在を確かめたかったが、不用意に身体を動かすことも憚られた。
ナノエと比べると、ベレーブック王国はあらゆるものが高度に洗練されている。
たとえば、ガラス。
ナノエでも大きな屋敷になると窓にはガラスが嵌まっているが、今この部屋にあるガラス窓と比べると、あれは濁った氷である。
大きく、透明で、薄い窓ガラスは、朝の陽光をありのままにこの部屋へ取り込んでいる。
この――浴室。
温かな湯気と薔薇の匂いで満ちた、この広い浴室に。
「~~♪」
そう。この湯気。
ベレーブック王国は水が豊かで、下層民にいたるまで少なくとも水に困ることはないとは聞いていた。だが、温かい湯をこうもふんだんに使える、などという状況は想像すらしていなかった。たとえそれが高位貴族に限られることだとしても。
浴室の中央に置かれた足つきのバスタブにはたっぷりと湯が張られ、石鹸(これもきっと俺の知っているものではないのだろう)の泡で溢れかえらんばかりである。浴槽の周りには花なんて飾られたり散らされたりしていて、まったく俺の知る入浴というものとは次元が違う――
「タスク」
名を呼ばれ、背筋が伸びる。
「また目を逸らしていたでしょう?」
「…………」
「駄目よ。ちゃんと見ていないと」
声のした方へ、じりじりと顔を向ける。
言うまでもなく、バスタブにいるのはエリーザだ。白い泡に包まれて、身体の大半は見えない。
だが裸である。一糸まとわぬ姿である。
それに目を向け、逸らすなという命令を、俺は仰せつかっていた。
「なんですか、その引きつった顔は」
そしてここにいるのは、エリーザ一人ではない。
「エリーザ様に向ける表情ですか? それが……」
彼女の侍従たるポピーは、いつものメイド服よりも薄く、丈の短いワンピース姿。丁寧な手付きで、エリーザの長い金髪の面倒を見ていた。
普段よりもいくぶん無防備で、浴室の熱と湿気で汗ばんだポピーの姿。
(俺としてはこっちも十分気になるんだが……!)
とはいえ、彼女はあの夜の宣言通り、俺の動向へ注意深く目を光らせている。露骨な視線を送りでもすれば、すぐに気取られるだろう。
(
腕組みの下、隠した手で脇の
あまり日常的に使うのは好ましいことではないが、今この場で無様を晒すよりはましだ。
ようやく心臓が落ち着いてくる。俺は自分の声が裏返っていないことを確かめながら、慎重に口を開いた。
「……本当に今後ずっと、こんなことを?」
「そうね。浴室であれ、寝室であれ……主が無防備を晒す時こそ、すぐ近くに侍り護る。それがバゼラードというもの」
そう語りつつ、けれど、とエリーザは続ける。
「本当のことを言えば……別に、そうする必要はないわ。入浴の供はポピーがいれば十分だもの」
「なら……」
「でも、周囲にはそう思われておく必要がある」
エリーザがその瞳を細めて俺を見る。
「私がバゼラードを必要とした理由は覚えているかしら?」
「……オリツァシウ公爵の座に就くため。そのために、伝統派の貴族の支持を得る」
「伝統派っていうのは、要はジェマノス統一王を敬愛している人たちの集まり。彼の長所を敬い、短所を笑い、しかし決して蔑まず、親しむ。そういう思想を尊重してあげる必要がある。バゼラードを持つのも、その一環」
統一王のバゼラード――
400年前のある夜、ジェマノス王が寝室に護衛の女兵士を連れ込もうとした。それを見咎めた妃に対し、彼はこう弁明したのだ。
『私は身を守るための
この統一王のエピソードは、彼の好色とユーモアをよく表すものとして、伝統派の中では特に親しまれている逸話らしい。
長じて、『婚姻関係にないが寝室の伴をし、寵愛に忠誠で報いる異性』としてバゼラードという存在が持て囃されるようになった。
もちろん、実際にそういった存在を持てる者は限られる。だからこそ、それを持つことの意義は強い。
「バゼラードというからには、主君と身体の関係を結んでいるのは前提なの。もちろん、証明を迫られたりはしないでしょう。それでも、あまり私の存在にどぎまぎしているようでは、無用な疑いを持たれてしまうわ」
エリーザは悠然とした手付きで、白くなめらかな腕を撫でている。
「だから、慣れてちょうだい。裸の私を見慣れておけば、服を着た私なんかに緊張することはなくなるでしょう?」
(そうなんだろうか……)
「誰だって稀少なもの、高価なものを前にすれば緊張するものよ。でも、価値というのは結局、持つ側が決めるもの」
エリーザの指の隙間から、泡の乗った水が流れ落ちる。
「タスク。あなたは、
俺は頷ききれなかった。
元より俺にその手の機微はまったく分からない。王国の社交界のやり方など、俺がどうこう口出しできるものではないだろう。
それにしたって、彼女の言葉は少し、冷たいような――
「私はタスクの気持ちを理解しますよ」
不意にポピーが俺の名前を口にし、あれこれと考えていたことが吹っ飛んだ。
「そう?」
「エリーザ様自身がどう言おうと、エリーザ様はお美しいです。それに一朝一夕で慣れるのは難しいでしょう」
ポピーはエリーザの髪を磨く手を止めることなく、淡々と語る。
「それに、浴室の片隅で棒立ちで何もせず、意識するなというのも酷な話です。どうしたってエリーザ様に気持ちが向いてしまうでしょう」
ポピーが俺に視線を向けた。
知れず、背筋が伸びる。それが道端の草を見るような目であっても。
「タスク。あなたはエリーザ様のバゼラードとして、エリーザ様の意に沿っていれば良い。ですが、それでも最低限の常識は身につけているべきです」
「……そう思うよ。だからイン・ギムナウミからここまでの道中、俺は君にあれこれとこの国の常識をこの頭に押し込まれた」
それは彼女と正面から言葉を交わす、待ち焦がれた時間でもあった――声音も表情も話題も、すべてが事務的なものであったとしても。それ以外の雑談のようなものを、ことごとく躱されたとしても。
「では、復習をしましょう。少なくとも現状くらいは把握できているか。この場で証明してください」
「分かった。ここまでのことと、これから起こることについて話せば良いんだな?」
「私のことを見ながら、ね?」
バスタブに腕をかけ、エリーザが微笑みかけてくる。俺は咳払いをし、改めて彼女たちを視界の中心に捉えた。
* *
この国の政治的トップは、国王。
そのすぐ下に、公爵というのが4人いて、王国領を4つに分けて統治している。
エリーザがなろうとしているオリツァシウ公爵はその一つだ。
現在、前公爵アンドレア・クルムヴァルダーが病死したことにより、オリツァシウ公爵位が空位となっている。
爵位の継承は、基本的に血統が重視される。順当に考えれば、前公爵の息子が次期公爵の座につくはずだった。
だが数年前、前公爵の夫人が、長きに渡り不貞を働いていたのが明るみに出た。前公爵と夫人の間には4人の子どもがおり、うち3人が親から子へ遺伝する、ちょっとした病を持っていたのだ。
そして、公爵夫人の不貞相手というのが、その病の持ち主であった――
「結局公爵は、夫人の子をすべて不貞の子と断定し、継承権を剥奪。オリツァシウ領から妻子を追放した」
「国王が国王たりえるのは、ジェマノス統一王とその正妃の直系であるからです。爵位も同様で、前公爵の実子である保証のない前公爵夫人の子どもたちの継承は、歓迎されません」
「だから愛人のようなものを持つなら、タスクにしたみたいな生殖封印が必要なのよね」
そう。俺は現在、子どもを作ることはできない。
生殖封印はバゼラードであるからには必ず施さなければならない処理なのだという。教会に立ち寄り、背中にちょっとばかり魔法の印を刻むだけでそんなことができるというのだから、つくづくベレーブックの魔法技術は恐ろしい。
(解任の折には印が残るだけで、後遺症もないらしい……王国がそういう血統主義だからこそ、こんな魔法が開発されたんだろうな)
相変わらず、俺の視界には薄着のポピーと入浴中のエリーザの姿があった。
だが確かに、こう真面目な話をしていると、その光景にも慣れてくる。
「……続けます。この3年前の大廃嫡がきっかけに、エリーザ様が登場する」
エリーザの母親、マリア・ムヌメルは、前公爵アンドレアの秘めたる愛人であった。その秘密の関係ゆえに、前公爵は彼女へ生殖の封印を施せなかった――あるいは、その美しい肌に印を刻むのを厭ったから、とも囁かれているらしいが。
マリアはアンドレアの独占欲により、エリーザを妊娠する前後はほぼ監禁されるような生活を強いられていた。だがそれゆえに、マリアが他の男性と交わる余地はなく、エリーザは間違いなくアンドレアの実子であるとみなされたのだ。
一方でエリーザが生まれた頃にマリアとアンドレアの関係は夫人の知るところとなる。夫人はその存在に怒り狂い、マリアとエリーザを辺境へと追いやった。アンドレアも自らの立場と嫡子たちを守るため、それを認めるしかなかった。
自ら不貞を働きながら、夫の不貞を糾弾した妻。
妻の不貞の子を排し、自らの不貞の子を迎えた夫。
その歪みの隙間をすり抜けて、エリーザは嫡子となった。
「そして半年前に前公爵が病没し、空の公爵位とその嫡子であるエリーザ様が残ったわけだが……すんなりその椅子に座れるわけではない」
あの夜の襲撃を手引きした、前公爵の弟の息子、ヴィルナム。彼が、公爵位を巡るライバルの筆頭だ。
「前公爵の嫡子という地位は強力だが、絶対じゃない。それを前提に、他の貴族の支持を集めたものが、公爵に選ばれる」
「ええ。だから私は、まず伝統派を味方につけることにした」
「指名された嫡子が後を継ぐのは、伝統派としてもっとも妥当な結果だから。加えて、ヴィルナムは伝統派と折り合いが悪い」
ポピーがエリーザの髪をまとめ上げると、傍らに畳んであった乾燥生地のバスローブを手に取った。
おもむろに、エリーザが浴槽から立ち上がる。立ち上る湯気と泡の中、柔らかな輪郭が影に見えて、俺は思わず目を逸らした。
「駄目よ、タスク」
彼女は笑っていた。
「もし私が怪我をして、傷を見るために服を脱がせなければならないとなった時、あなたはそうして目をそむけて、手探りでやるの?」
「……必要な時はちゃんと見ます」
「普段できないことが本番に限ってできる、というのは、何よりまず捨て去るべき誤解よ」
「その時は私が対応いたしますし」
ポピーはよどみなくエリーザの手を取り、バスタブから出るのを手伝う。そしてすぐ、バスローブでその身体を包んだ。
「エリーザ様の身体には、傷の一つもつけません。私がそうさせません」
「ありがとう、ポピー。タスクの理解度はどうだったかしら」
「…………不合格ではありませんね」
不服げなポピーの言葉に、安堵の息を吐く。
「ありがとう、俺を認めてくれて」
「認めていません。その不躾な目をこちらに向けないでください」
「あら、駄目よ。ちゃんと私の方を見て?」
相反する二人の言葉に窮し、目が泳ぐ。そんな俺を見て、ポピーは嘆息し、エリーザはくすくすと笑った。
「良い気分転換になったわ。自分の状態を第三者が話すのも面白いものね。もっと聞ければ良かったのだけど……」
エリーザは窓ガラスの外を見る。
白い朝日は明るさを増していた。入浴を始めた早朝から、もうずいぶん時間が経っている。
「万一があってはいけないわ。今日の準備に入りましょう」
今日は統一歴426年、10月1日。
ここはベレーブック王都、モームカットの郊外に位置する邸宅。オリツァシウ公爵領の伝統派筆頭、ファーケイ伯爵の別邸である。
今まさに話した通り、俺たちは伝統派を味方につけるべく、王都へとやってきていた。
「王前
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