第4話 穢れの中で
「コーヒーだ、飲み給え。あときみ等、どっちも顔拭きなね。酷いぞ」
教授は言う。机に並べられたカップと、手渡された布巾。部屋を満たす甘い香りは、例外無くその布地にも焚きつけられている。
私はそれを、ありがたく思った。両手で包んだコーヒー・カップの温もりも。少女の顔にも何処か、安堵が浮かんでおり……私も彼女も、時折すんと鼻を鳴らして。それに、親近感を抱いていた。
「さて。さっきの問いについて、答えよう。講義は久しぶりだがね」
教授は一枚の紙……何かの裏紙だろう、表のインクがうっすらと透けるその紙に、カリカリと文字を書き込んでいく。流れるような筆跡の最後、いやに強く打たれたピリオド。浮かんだ文字は「人間は穢いのか!?」。
私はそれに、思わず笑った。詰まった鼻、痛む喉。クスリと小さく、吐息を漏らして。
「難しい議題だ。表現は違えど、全人類が極めて長い時間を掛けて議論してきた話だからね。きみ、メアリくん、どう思う」
「え、あの……それよりも、お父さんと、お母さんは……」
「安心したまえ。この辺りのエリアはね、自警団との取り決めで不可侵条約を結んである……だが、その視点『それよりも』が重要だ」
教授は紙に書き加える。追加された文面は……
「『他に考えるべきことがあるのでは?』。つまり、この議論に何の意味がある。それよりも我々は身の安全を守り、今日のパンを得て、安心して眠ることに頭を回すべきである!」
「あ、あの、いえ! そこ、までは……」
「いいんだ。実際ね、こんなことを大真面目に考えられるのは、余裕のある者だけなんだから……余裕のある今の内に、考えておこう。勿論、現状解決の片手間にね」
彼はそう、別の紙を取り出しつつ言う。そちらは上等な紙面であり……基金に宛てる報告書であるのは、その書き出しから理解できた。
メアリの保護プログラムの要請。彼は彼で、現実に向き合っている。益の無い議論を彼らに強いて、宙を彷徨い続けているのは、私だけ。それを、私は酷く恥じて……
「先に言っておくけれどね。これは、非常に意義のある議論だよ。この街について理解する上での指標になりうる。きみも、思うことを言い給え。何故、そう感じたのかね」
話を振られ、私は言葉に詰まる。一連の騒動の中、私は答えに辿り着いた。「人間は穢い」……そして、私も人間である。外的要因たる刺激、反応としての感情、行動の出力……それを繰り返し、社会を動かす、肉の機械。
私が見た、知ってしまった、あの側面は……赤子を殺すを良しとして、体系だった理屈を作り、正当化する振る舞いは……ある種の、信仰に基づいていた。信仰は、人間の思考の集積であるのだから……
しどろもどろになりながら、答える。メアリはと言えば、終始困惑した表情で。当然だ、これは私の、極めて個人的な思想が生んだ理屈であって、傍から見れば突飛に見える。けれども教授は報告書を認めながらに、頷き交じりに耳を澄ませて。
「つまりアレだね。三段論法だ。信仰は人間の習性である。人間の習性が『穢い』と感じる状況を作った。人間は『穢い』。いやまあ、大分端折ったが……キミさ」
教授は一度、コーヒーに口付ける。唇を湿らせ……私はどのような言葉が来るか、怖れを抱き。
けれど。
「キミ、人間が大好きなんだな」
その言葉に、私は面食らった。人間が好き……私は人間だ。だからそれは、当然のことなのではないか。それ故に人間は、自身等の種族の繁栄を第一に考え、合理的な選択を行う。彼らの思考の集積であり、発明である、宗教と言うシステムも、愛情と言うものを根幹にしている……
だからこそ私は、彼らに貢献したいと願った。輪に入りたいと、願ったのだ。私は躊躇いながらに頷く。もしかすると、普通の人間はそうではないのか。そう、怯えながら。
そんな私に、彼は小さく微笑みかける。
「僕もだよ。だからこそ僕は、研究なんてやってる訳だ。その信頼が、揺らいでしまった訳だね、キミは」
また、頷く。言ってしまえば勝手に信じ、勝手に裏切られただけだ。人間を信頼することで、自分自身をも信頼していた。そんな、身勝手な傲慢さが、否定されただけなのだった。
「まあ分かる。よく分かる。僕も此処の連中に片足切り落とされた時には、この穢れた野蛮人共めと叫んだよ」
息を飲む。突然の告白、彼の負傷の原因……それは、報告書にも記載されていなかった。彼はそれを、さび釘を踏んだ事故によるものと記していたはずで。隣で聞いていたメアリの顔も、血の気が引いて。
「隠していた点は詫びよう。そして、もう一つ……僕はキミと、対立することになるかも知れないと思っていた。信用していなかった。それについても、深く詫びたい。すまなかった」
硬直する私へと、教授は頭を下げる。それは、懺悔でもするかのように……その必要はない。私は彼に、頭を下げられる資格など無い。慌ててそれをやめさせようとしたところで、メアリが言った。
「ごめん、なさい……」
「いい、きみが謝る必要はないんだ。それに僕は、足については恨んでいるが……この街の住人は、嫌いじゃない」
「言ってる、意味が……」
メアリは食い下がるも、教授は笑む。先の告白と言い、今と言い。彼は何故、これを笑って言えるのだ。大したことではないとでも、言うかのように。私はそれを、心から疑問に感じ……カップを煽った教授が再び、口を開く瞬間を待った。
「……こういうことを言うのは、慣れないがね。僕たちが基金に上げる報告書。それで、この街の運命は決まっちゃう訳じゃないか」
「え、っと……どういう、意味ですか……?」
「そのままの意味だよ。僕らはね、この街を解体すべきかどうか、国の方で強制排除に乗り出すべきかの、事前調査員なんだよ。だから、この街の住民達について調べてる。それで、僕はね」
「断固として、街の存続を望んでいる」。彼は力強く言い……そうして、深く息を吐いた。肺を満たした空気を吐き出し、短い拍でまた満たし。
「何を以て穢いと言うのか。何を以て清いと言うのか! 善悪もそうだ、それを測る物差しは、刻まれた目盛りの間隔は、個々人ごとに、集団ごとに違うのだ! 我々外の人間が穢いと思う事だって、この街の人間からしてみれば、それをせねば生きていけない、生活の知恵の一部であって……つまり、ゲホッ、僕らは表面的な考えを以て、彼らを理解したつもりになっちゃいけないと思う、ゴホっ、思う訳だよ! 国の都合だけで、死なせるなんてっ、けんきゅ、研究倫理の敗北じゃないか!」
そこで彼は、遂に激しく咳込み始めて。私とメアリ、二人がかりでその背を擦り……席が治まり、コーヒーを一口啜ったところで、やっと彼の呼吸は落ち着く。
研究倫理。人権……生命、身体、精神の尊重。彼が学者であるのは、当然理解していた。が、彼はそれを、自身の教義としているようだった。そして、それは、私にとっても――
「すまない。どうも、最近咳がね……つまるところだよ。きみは今、この街に対して『穢い』と思った訳だが、僕はそれを論文の出発点にして欲しいと思っているんだよ。この街が穢いことなんて、一目見りゃ誰でも分かる。『この街は穢い。本当にそうなのか』。きみはそれを検証し……この街について、結論を出して欲しい訳だ」
あくまで人間を機械として見る、その視座を以てね。彼はそう語り、私へとメモ帳、そしてペンを押し付ける。
「僕もね、人間は……と言うより、研究者とは、機械である思ってるよ。人間の為に動き、人間の為に解析し、人間の為に新たな発明を生む機械さ。だから……論文を読んだ時、きみになら後任を任せてもいいんじゃないかと思った。この街の理解者に、なってくれるんじゃないかとね」
「……」
「だが、早合点しないでおくれよ。きみが彼女を助けたのを見てね、僕もまだ、街に残ることにしたんだ。一緒にやっていこうじゃないか……どんな結論に至っても、僕は恨みはしないからさ。で、先ずやるべきなのは」
当事者へのインタビューだろう。言って、彼はメアリを見る。メアリは突然視線を向けられ、慌てる素振りを見せていて。
ノートとペンは、私の手元に戻って来た。彼は私に、この街の理解者となることを望む。観察、者などではない……
私は、メアリへと向き直る。
「あなたの話を、聞かせてくれますか」
私は、教授の期待に、応えねばならない。
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