第3話 逃避
私は少女を抱いたまま走る……この街に対する観察と記録を放棄して、挙句、教授のことまで置き去りにした。このようなことは今までに、一度たりとて経験したことが無い。
これからどうするつもりだ。どうすればいい。少女はどうする。保護し続けるのか。けれど私の目的は、彼女の保護などではない……逃避でしか、なかったのだ。自分自身が何をしようとしているのか、何をしたいのかすらも分からず、分からぬままに、私は走り続けていた。
金属質の廊下を駆けた。乱雑に張られた木板の床を、無理やりに設けられた螺旋階段を駆け抜けた。毛布を被って通路の隅に蹲る人々、すれ違う者等の傍らを走り……そうしてやっと、私の部屋。鍵の掛かった小部屋の前に辿り着き、そこで漸く、足は止まった。
それが、行き止まりだった。鍵は、置き去りにしてきた教授がまだ持っている。呼吸が荒い。視界は滲み、足は痛む……少女を抱え続けた腕も。それでもまだ、逃げ切れたと言う保証はない。暴れまわる心臓の鼓動、上手く酸素を取り込んでくれない肺の伸縮、それは今尚強まり続け、私の思考を乱し続ける。少女を探す者達の怒声と、火葬場で鳴る換気扇とが、私の脳裏でがなり続けて――
「ありがとうございます」
思考が止まった。声は、私の腕の中から……視線を落とせば、少女がそこで泣いていた。肩を震わせ、絶えず流れる涙の雫、それを両手で拭いながらに。
彼女は繰り返す。「ありがとう」……その様を見つめ続ける内に、荒れた私の呼吸と鼓動が、徐々に鎮まりゆくのを感じた。
感謝されるようなことは、何もしていない。ただ……私の逃避と、彼女の求めた庇護が、偶然に噛み合っただけ。そうだとしても、彼女は礼を言うだろう。理由はどうあれ、彼女の逃避を私は助けたのだから。
刺激と反応。当然の出力。私は人間そのものが、外部からの刺激に対して反応を行う有機の機械であると結論付けていた。教授の揶揄に対して抱いた私の思考、培った論理――それが故に私は、最も受け入れがたい事実を、理解してしまったのだが――目の前の状況を分析する内に、混乱しきった私の頭も、次第に落ち着きを取り戻していく。
私は一先ず、少女を扉の前に降ろした。次いで自身のコートを脱いで、彼女の体を覆い隠す。この街に来てから度々目にする、布に包まり蹲る人々……それを模して、彼女を隠した。
「あ……あれ? あの、それ……」
コートを被った少女が言う。私は頭を振り、そのまま隣に腰を落とした。
私は思案する。疲労感はあったが、これからどうするか考えねば……謝罪の為にも、教授とは合流せねばならない。そして、彼女をどう保護するか……
先ずは、目の前の事象に対処せねば。だと言うのに、湧き上がる疑念が思考を乱す。何故、信仰が人を殺すのだ。人が、人として持つ機能……人の為にあるべき機能が、何故、人を傷つけるのだ。相互扶助、集団の幸福……それを最大化せんとするのが、人の習性なのではないのか。怒りや恨みが人を殺すのは理解出来る。だが、信仰は……それを食い止め、秩序を築き、他者を救うために生まれたシステムではないのか。
お前達の仰ぐ教祖は、赤子を殺せと言ったのか。そんな筈はない。思想を説いた者達の努力は、積み重ねられてきた議論は、そうして得られた赤子を守ると言う決着は、一体なんだったのだ……やりようのない怒り、いつから握りしめていたのかも知れない拳に、痺れを感じた。
「……落ち着いて、ますね。こんな……あなたも、危ないのに……」
少女の顔を見る。その顔には困惑が浮かび……私はこんな状況でも、機械の様に見られているのかと落胆を覚えた。そしてこんな状況であれど、そんな些細なことに気を取られている、自分自身が嫌になる。
それを自覚してやっと、私は体から力が抜けた。興奮が解け、疲労が大挙して押し寄せる……背中に感じる壁の冷たさ、尻に感じる格子の凹凸。何処から吹き込んできているのか、隙間風が運んだ冷気……熱が奪われていくのは、体だけではない。思考も、水でも浴びせられたかのよう。
先ずは、彼女を隠そう。その後、教授を迎えに行って……彼はきっと、憤慨するだろう。私は彼に向けられた期待を、全く果たせていないのだから。謝罪し、もしも拒絶されたなら、少女を連れてこの街を出よう。人命の保護を理由とするなら、基金もそれを拒めはしまい。寧ろ彼女の存在と、証言こそがこの街の状況を、正しく伝える証拠となる。
私は決め、立ち上がる。まだ彼女を探す者が居るのであるなら、そして単独で動くのであれば、争いに巻き込まれるかもしれない。腰にぶら下げたホルスター……
コートで隠し続けた拳銃。コレに、頼ることになるかもしれない。いつでも引き抜けるよう、私はそれに、手のひらを重ねて。
「だ、駄目です――!」
そんな私へと少女が飛びつく。私の手にしがみつき、拳銃を引き抜かせまいとして。理由が分からず、困惑したまま、彼女を見て。
「殺しちゃ、駄目、駄目です……! 家族なんです! お父さんと、お母さんと……司祭様も……!」
成程。彼女の目に私は、追手を殺しに行くようにでも、見えたらしい。単に自分の身を守るためであったのだが……
しかし家族、両親は分かる。彼女は確かに追われ、腹の子を殺されようとはしたが、それでも情はあるのだろう。が、司祭……それは、腹の子を夢魔だと断じ、間引くことを是とした者なのではないか。
夢魔なんてもの、居るものか。腹の中に子がいるならば、それの両親は何れも人間。元より夢魔と言うもの自体、不貞を隠すための言い訳として発展した伝承なのだから。人間相手の不貞ではない、抗う事など出来はしない、悪魔の力が子を成させたと……
私は、彼女へと問いかけた。何故、司祭までと。問えば彼女は、頭を振って答えを返す。
「いつも、いつもは優しいんです、二人も、司祭様も……本当は、こんなこともしたくないって、泣いて、泣きながら、追いかけてきて……今までだって、ずっと、ずっと、私達を助けてくれて……司祭様は……」
私達に、ずっとパンをくれたんです。
この街で見た光景、記憶が、彼女の言葉に浮かび上がる。異形の神像へと祈る人々、食前の感謝……彼らの前には、パンがあった。この街には、夥しい程の宗教が根付く。私が見た彼等・彼女等が、この少女の語る「教会」の信徒であったとは限らない。
しかし、それでも。貧困と飢えに喘ぐこの街、宗教は確かに、住民の生活を支えている。心のよすがとなっている……私は迷う。第一。
「だから、お願い。殺さないで……誰も、誰も……嫌いになんて、なれないんです……」
泣きながらに縋りつく彼女。私にはそれを、振り払う事なんて出来ない。そうしている間にも、この通路へと繋がる階段、上がってくる足音があった。
革靴の一歩、鉄足の一歩。奇妙な足音は、私の知るそれであって。
「ああ、やっと追い付いた……きみ……」
額に汗した教授の顔。置き去りにしてきた、彼の姿。彼が無事であったことに、私は先ず安堵を覚え……次いで、この状況。自分が仕出かしたことに対する、叱責と非難とを予想した。
私に反論の余地はない。彼女を助けたのは衝動的なそれであり、守り続けるだけの絵図すら書けていない。そも、私のこの行動は、教授の研究に対しても、迷惑を掛けるものであり……
覚悟を決める。罵倒も、処罰も、甘んじて受けよう。この街から出ろと言われたならば……せめて少女だけ連れて、保護と出産に尽力しよう。私に出来ることと言えば、そのくらいしかないのだから。私は目を閉じ、教授の言葉を――
「よくやった。よくやったよ、きみ!」
教授が私の両肩を叩く。その言葉に、目を見開いた。
教授は、泣いていた。私の肩を支えにし、体を震わせ、泣いていた。
「いや、本当に……よくやった。よく、動いてくれた……!」
言葉が出ない。元より、私は思考が遅い……混乱する今は、尚更で。
私は何故褒められているのか。何故、彼は泣いているのか。呆然とする私を他所に、教授は少女とへと話しかける。
「きみ、名前は」
「め、メアリ、です……」
「そうか、メアリくん。安心したまえ、きみのことは僕らが保護する。まずは基金にきみのことを報告し、保護プログラムを作ってもらおう。それまでは、ほら。入って、入って」
彼は研究室の戸を開けて、私達へと入室を促す。しかし、私は躊躇する。彼の研究を妨げる私が、その敷居を潜れるものか。私は、口を開こうとして。
「いい。何も言うな。だが、聞いてくれ……きみは、よくやった。やってくれたんだよ。きみは――」
「過去の僕を救ったんだ」と。教授は私を抱き締めながらに、そう、呟き続けるのだった。彼の手には、私が落としたペンと、メモ帳とが握られていて……部屋から漏れ出した甘い香りと、教授が見に纏う香水の香り……辟易するほどに、強過ぎる香気。しかし。
私は初めて、この香りに安堵を覚えた。安堵など、憶える権利はない。私は只、あの嫌悪と吐き気の理由に、気付きたくなかっただけなのだ。彼は何も言うなと言ったが……
私は、彼に問いたかった。彼になら、問いたいと思った。私が見出し、直視することが出来なかった、導き出してしまった結論。その是非を。
「人間は……私は、穢い生き物なのでしょうか」
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