第2話 夢魔の赤子
多くの信仰は神の姿を描き出す。自身等の生活、文化、思想に即した姿を神に見出す。数多の信仰が犇めきあうこの街にあっては、そうして生み出された神々が、どれだけの数存在するのかも分からない。そして、それは。
「メアリが妊娠したって」
「相手は?」
「夢魔」
それは怪物、魔物の類も同じであって。
教授に連れられ、私が寝泊まりする部屋へと向かう仲、少女たちが話すのを聞いた。すれ違い様に聞いたこと、引き留めて尋ねることなど出来ず……教授に視線を寄越してみれば、彼は頬を掻きながらに言う。
「都合の良い事だ。ああ言うのは大体、夢魔……インキュバスの所為にされてるのさ。この街の信仰は雑多だが、便利だからね。派閥を問わずに定着してる。そして、それ故に風紀も乱れがちだ」
鍵は常に掛けたまえ。彼はしかめっ面で言い、懐から鍵束を取り出す。格子床の通路に面した鉄製の引き戸……それが、私の部屋らしい。
恐らく今、私は釘を刺されたのだろう。心配されずとも、そのようなことに現を抜かすつもりはない。非難の声を上げるべきか、私は迷い――
「夢魔と女が交わって、それで子供が生まれたとして。その子は、人間だと思うかい」
鍵束に連なる四つの鍵、一つ一つ開錠しながらに。彼は言った。天井に吊るされた裸電球、その光を背に受ける彼の顔色は、私の位置からは窺えない。
「何でも、人であるそうだよ。昔、神学者やら法学者やらが大真面目に議論して、そう決着したらしい……夢魔は男にも女にも成れて、女の姿で男の種を奪ったら、男の姿でその種を使う。だから生まれてくる子供も、悪魔じゃなくて人間で……ちゃんと、洗礼も受けさせるようにしたんだってさ」
言葉と共に、戸は開かれる。廊下と同じ裸電球、照らされた部屋は殺風景で、寝台と机とが一つずつあるだけだった。
眠るだけの部屋だ、それで事足りる。部屋に対して異存はなく……寧ろ私は教授の言葉、最後の口上に思考を巡らせ続けていた。
信仰は、人間の思考の集積である。故にそれは、同じ種族たる人間に対する、愛情を根幹にしている筈で……もたらされた結果が赤子の保護であったことに、深い納得を抱いていた。洗礼は人間性を認める行為、通過儀礼。赤子に対して神の愛が向けられることを示す儀式の筈で……それが為されてきたことに、私は酷く安堵する。この街に来てから抱き続ける正体不明の不安さえ、僅かに治まる感覚があった。
だが、しかし。その議論が行われる前は。夢魔の子が悪魔と判ぜられていた時代、彼等・彼女等はどのような扱いを受けたのか……思考を進めていく中で、不意に私は身震いを覚えた。気温の変化は感じられない。
「なんとも慈悲深い結論じゃないか。この街でも、そうであるとは限らないがね」
此方へと振り向いた教授の顔には、小さな笑みが浮かんでいた。次いで、彼は私へと言う。
「いい機会だ。ついてきたまえ」
開いたばかりの戸、彼は手早く鍵を閉めると、金属質の足音を鳴らす。革靴の底が鳴らす音、義足が床を叩く音。二種の足音を響かせる彼の後に付き従い、薄暗い廊下を歩き続ける。
区画によって、この街の景色は全くに異なる様相を見せる。赤い糸で小銭を連ねた民芸装飾、壁に描かれた招福の文字。それを横目に見たかと思えば、廃材を使って無理やりに備え付けられた、尖頭アーチが連なる通路……抜けた先に広がる空洞、幾らかの椅子と、異形の神を象った像。蓮台に乗り、手には宝塔を持っている辺り、その原型は窺い知れるが……それの顔はやはり西洋的な男性のそれで、材質もまた、石膏であった。
「この街は上空から見れば、大まかではあるが正方形の枠に収まる。それが内部で複数のブロックに分かれている……と言うよりも、碁盤上の街並みに立った建築物を、無理やり繋げている形だね。この通路も、そんな建築物同士を繋ぐ連絡路の一つであるらしい」
その上空写真さえ、二十年前のデータだが。彼は言いつつ、私を導く。通路や部屋の壁には、それぞれ異なる意匠のシンボルがスプレー缶で描かれていた。上塗りを重ねた跡を見るに、街の内部の勢力図についても、変わり続けているのだろう。落書きの一つ「同胞を愛せよ」と記された壁が、頼りない灯りに照らされている。
メモは増えていく。筆跡が乱れているのが、自分でも分かった。
「覚悟だけはしておいてくれ」沈んだ顔で彼は告げる。「遅かれ早かれ触れることになることだ」「きみのことだ、きっと動じないだろう」とも。私には視線を寄越すことなく、まるで自身に言い聞かせるように呟く。それに私は、何を見ようと動ずるまいと、息を吸い……
「……」
辿り着いた部屋の光景。私は呼吸すら忘れ、それをメモに書き起こした。
それは、一見して礼拝堂の様に思えた。が、異様であるのはその壁で……無数の換気扇が張り付き、ある物は軸が歪み、ある物とは今にも止まりそうになりながら、けたたましい風切り音と振動音とを鳴らし続ける。中央奥には簡易な祭壇が鎮座して、その手前には長机……恐らくは供物を置くためだろう、煤けた机が置かれていた。
煤。そう、机にこびり付いているそれは、炭であった。
「大丈夫かい。気分を悪くしたなら、すまない……きみは表情が読みにくいから、何かあったら遠慮なく言ってくれ給えよ」
指差す彼に、私は頭を振って応える。記録は未だ終わっておらず、教授による説明を求めた。話の流れから言って、粗方予想は付いてるとは言え……憶測を記すのは、避けたくて。
「この街ではこういった部屋が無数にある。朝の祈りを捧げ、教団が信者へと食事を配ったり、怪我人が出た時、治療と共に治癒の祈願を捧げたり……生活に必要な行為があれば、付随する祈りがある訳だ。信仰と相互扶助の結びつきだな。具体的な儀式内容は、教団ごとに様々だが……」
彼は口籠り、私を見る。そうして決心したように、説明を続けた。
「この部屋は、悪魔祓いの為の祈祷所だ。払う悪魔は、つまり、夢魔の子だ。死体はこの部屋で燃やしてしまって、燃え残った部分は、窓から……ほら、部屋の真ん中。コンクリの部分に、焦げ跡が――」
不意に、口の中に吐瀉物が上がった。
突然だった。先触れも予兆も有りはしない。私はそれに目を見開き――調査対象であるこの部屋を汚してしまう訳にもいかず、必死にそれを呑み込んで。
喉の痛みを感じながらに、私は意識を観察に向ける。突如として湧いたこの動揺を、治めねば……自身が今立つ床の感触、教授の服の衣擦れの音。遠く、部屋の建材を伝い感じ取った、複数人が立てる足音……何処かで、誰かが走っている。きっとこの街の抱く混沌、醜悪さから逃げているのだ――そんな空想を抱きながらに、私はやっと、自身の吐瀉物を飲み干した。次いで咳き込んだ私の背を、教授は軽く、何度か擦って。
「無理はしなくていい。僕も、初め見た時は吐いた……厳しいが、通過儀礼とでも思ってくれ」
通過儀礼。イニシエーション。個人が団体に所属する際、自他ともにそれを認識するために行う儀式であり……成人儀礼に見られるような、成長や発達、新たな自身への変化を認識する行為。
私は今、この街の住民になってしまったのだろう。目と耳、鼻に、舌を通して、この街の汚穢が体の中へと滑り込み、私を作り変えていく。
いや、寧ろ。これは……抱いてしまった考え、気付きを振り払おうと、目の前の事象に意識を移す。
つまりこの街に於いては、夢魔の子は悪魔であると、そうせねばならなかったのだろう。かつて何処かで行われたという裁判では、子を守るために人であると判じられたが……この街では逆に、子を捨てる為の方便として、逆の立場を取っている。そうしなければ、間引く側である親族たちが、罪の意識で圧し潰されてしまうのだ。その為の理由付けが、この礼拝堂……
推測出来る。出来てしまう。彼等は自身等を救うために、その信仰を生み出したのだ。それだけに、私が抱くこの感情をどう処理するべきか分からなかった。胃酸で焼かれた喉の痛みと、鼻腔に登る不快な香り……胃液とコーヒー、傍らの教授の付ける香水。私の体内から湧き上がる汚臭。そしてこの部屋にこびり付く――
そこで再び、吐き気が襲った。私の動揺を引き起こす刺激が、赤子の火葬にある事は既に明白で……けれども、その理由が知れない。理解より先に、否応無しに体が反応を示していた。人の死も、死体も、幾度と無く基金の調査と実験の中――遺体の解剖、検死の立ち合い、時には事故による悲惨な死まで――見て来た筈であると言うのに。
私が抱く嫌悪感は、『死』に対するものではない。間引きと言う、社会的に必要である処置に対するものでもない。ならば、何が理由であるのか。自身の肌の下、虫か何かが這いまわるような、この怖気の原因は……
「もう行こう。手洗い、寄っていくかい。ここまで強烈なのは、この街でも此処くらいだから……どうにか、耐えてくれたまえ」
教授に背を押されながらに、私は外へと歩き出す。頭を埋めるのは、疑問。どうして自分がこれほどまでに、動揺してしまっているのかが分からなかった。絶えず湧き上がる吐き気の意味も。故にまずは、それを引き起こした理由……反応を導いた刺激について、検討を行わなければならない。片足義足の彼よりも、私の歩みは頼りなく……
通路へと、歩み出た時だった。突如脇腹に衝撃が走り、私が床へと倒れたのは。
「な、なんだいきみ……!」
教授の声が響く。私の体に、温かな重みが覆い被さる……私はそこでやっと、誰かにぶつかられたのであると気が付いた。
見れば、それは少女であった。枝毛だらけの金の髪、継ぎ接ぎだらけのワンピース……そして、腹。肥満のそれとは異なる形に膨らんだそれは、命を孕んだ証であって。私の上に伏した彼女は、恐れとも、申し訳なさとも、安堵とも取れぬ表情を浮かべ……言葉を紡がないままに、形を変え続けた唇。それが、数秒の沈黙の後、振り絞ったように声を上げた。
「助けて、ください……」
少女は私達へと言う。目元が赤い、涙の伝った跡がある。身重の体で走り続けてきたのだろう、衣服は汗で肌に張り付き……息も絶え絶えであると言うのに、彼女は腹の子を守らんとする。そして彼女の懇願の最中、遠く響いた怒声と足音。
そして、何よりも。彼女が纏う衣服の下、膨らんだ腹。そこに薄く、赤色が滲んだ。
それらが何を意味するのか。胃から昇る悪臭、皮膚の下に感じる痒み。記憶、記録は私の脳裏で繋がって。理由不明の吐き気の理由、私はそれを理解する。してしまう。
脳の奥で、何かが弾ける感覚があった。抱き続けた、正体不明の不安感。それが発火し、火花を上げた。
ペンとメモ帳とを取り落とす。落としながらに、私は言った。
「駄目だ」
驚く教授の顔を尻目に、少女を抱き上げて……迫る足音、火葬の祭壇に背を向けて、脇目も振らずに逃げ出した。
そう、逃げたのだ。助けたいと思ったのではない……私はその光景だけは、記録に残したくなかったのだ。人間の思考の集積である信仰が、赤子を殺すと言うのであれば……私はその光景を、直視することなど出来ない。 それが突きつけられたが最後、私の嫌悪と嘔吐の理由、それが証明されてしまう。
嘔吐の理由は、既に、分かり切っていた。ただその答えに、行きつきたくなかったのだ。部屋から響く換気扇達の合唱が、逃げる私を嘲笑っている。
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