愛されるままに

青空一夏

第1話

「美咲。もうそろそろ、俺たち、一緒に住まないか?」

「え? 同棲ってこと?」

「そうだよ。もちろん、結婚前提で」


 直樹の部屋に泊まる週末は、もう珍しくなかった。彼はいつも通りの口調で、まるで天気の話でもするみたいに言う。驚いたふりをしながら、その言葉を待っていた私は、直樹に抱きついた。


「嬉しい! 大賛成よ」


 付き合って、もうすぐ二年だった。私は都内で事務職として働き、一人暮らしをしている。

 直樹――三浦直樹は、大手メーカーに勤める会社員で、彼もまた同じ沿線に部屋を借りていた。



 それから数日後、大学の同窓会があった。懐かしい顔が並ぶ中、長谷川翔に声をかけられた。


「君、佐倉さん? ずいぶん綺麗になったね。でも面影あるよ」


 覚えていてくれたことに嬉しさがこみあげた。彼は当時、バスケ部のキャプテンだった。


 会話が弾む。翔が隣に座り、さりげなく肩を寄せてきた。ドキンと心が跳ねる。久しぶりに感じる種類のときめきが新鮮で、頬が熱くなった。


「もっと話せないかな? せっかくなんだし……静かなところに行かない?」


 翔が、そっと耳元で囁いた。私は思わず頷いた。


(もっと一緒にいたい。このまま別れれば、またいつ会えるかもわからない)


 そして二人っきりになれる場所へ……。理性より先に、気持ちが動いてしまった。


 

 朝起きると、見知らぬ天井。隣に横たわる翔の寝息。窓から差し込む朝日? いいえ、違う。すでに日は高くなっていて、時計は昼前を指していた。


(……やってしまった……直樹を裏切るなんて……あり得ないことよ。私はこんなことを平気でする人間を軽蔑していたはずなのに)


 翔が目覚めて、気まずいまま目を合わせた。


「ごめん。なんて言うか……久しぶりに会えたから、懐かしくてさ。ちょっとテンション上がってた」

「私も……そんな感じです。とりあえず、ここから出ましょうか?」

「そうだね。ところで、お腹は空いてない? ランチぐらい奢るよ」


 ホテルの近くのカフェに寄って、二人で無言でランチをする。天井が驚くほど高く、大きな観葉植物の影が、白い壁にくっきりと落ちていた。どこを切り取っても洗練された、明るく開放的な店内だった。


 それに反して、私たちの間に流れる空気は重かった。同窓会での華やいだ気持ちとうってかわって、今はお通夜のような空気が立ちこめていた。


「……あのさ……このこと他の奴に言わないでくれないかな? 俺、彼女いるし……」

「あっ、私も彼がいるので……」

「そっか。じゃぁ、そういうことで……」

「……はい」


 モヤモヤした気持ちで自分のアパートに戻ると、直樹がほっとしたような笑顔で迎えてくれた。


「おー、遅いご帰宅だなぁ。どこで酔い潰れていたんだ? 心配してたんだぞ」


 直樹の言葉に、はっとして携帯を見る。着信履歴が二件残っていた。


「ごめん……全然気がつかなかったわ」


「いいよ、いいよ。美咲は結構呑むからなぁ。終電、逃してカプセルホテルでも泊まったか? 飲み過ぎて気持ち悪くない? お粥でも作ってやろうか?」

 

 同窓会のことは直樹に話していた。酔い潰れていたら介抱するつもりで、昨晩ここに来たらしい。帰っていなかったから、合鍵で入って待っていた、とも言った。屈託のない笑顔。私はその笑顔をずっと見ていられず、目を逸らす。


「食べて来ちゃった。お腹は空いてないわ」

「そっか。何食べた? 夕飯はかぶらないほうがいいよな? 今日は俺特製のお好み焼きを作ってやろうと思ってさ。材料は調達済みだよ」

 得意げに冷蔵庫を指さした。スーパーの袋を提げて、うちに向かってくる直樹の姿が浮かぶ。見慣れた光景だ。


「えっと。キッシュと紫キャベツのサラダ……」

 

 とたんに直樹が、驚いたように目を見開いた。


「ずいぶんお洒落なものを食べたなぁ。どこのカフェ?」


「あ、えっと……昨夜は昌子のアパートに泊めてもらって、そこから近いカフェがあって……」


 昌子は同じ会社の友人だった。同窓会の会場からもカフェからも、そう遠くないところに住んでいる。


「なるほど。昌子さんと食べたんだね。そういえば、ちょくちょくその昌子さんっていう名前を聞くよね。今度、一緒に食事をしようよ。『いつも美咲がお世話になってます』って挨拶もしたいしね」


「う、うん。そうだね。あとで聞いてみるよ」


(そんなことになったら、昌子まで巻き込むことになる。それだけは、したくない……)


 直樹の何気ない言葉が、胸の奥に小さな波紋を広げる。そんな私の気持ちも知らず、彼は私から聞いたカフェを鼻歌まじりに、携帯で検索する。店内やメニューを見ると、感心したように頷いた。


「今度、一緒に行こうよ。俺も食べてみたい」

「え? なんで? 直樹はカフェなんて好みじゃないでしょう?」

「いや、たまにはお洒落なところに行きたい! ここって知る人ぞ知る、人気のカフェ店らしいよ。ほら、食べログ見てみなよ。すごい高評価だろ?」


 直樹は画面を私に向けたまま、楽しそうにスクロールした。


「あっ、ほんとだ。どうりでお洒落な店内だったわ」

「だよな。写真でわかるよ。南国風なのかな。味は美味しかった?」

「……美味しかった……かな。でも、また行きたいほどじゃなかったかも」


 私は適当に言葉を濁す。画面に映る白い壁が、私の目にはどこか薄汚れて見えた。


(直樹とここに行きたくない。この店にはもう足を踏み入れたくないのよ)


 

 それから数日後、珍しく風邪を引いて体調を崩した夜だった。直樹からの電話に気づかず、あとから連絡を入れる。


『熱があってだるいから。ごめんね、もう寝るわ。明日は会社を休むかも』


 いつもなら電話をかけ直すのに、文字で打ち返した。あの出来事以来、彼との距離を感じている。

 けれど、翌日、当たり前のように直樹がやってきた。


「有給を急遽とったよ。病院に行こうな。インフルエンザかもしれないから。風邪は引き始めが肝心なんだよ」


「有給? こんなの市販の風邪薬で治るのに。大袈裟だわよ」


(そんなことまでしてもらっていい私じゃないのに……)


 かかりつけの医者に、直樹と一緒に行った。診察が終わり、ただの風邪だとわかってからも、直樹は終始気にかけてくれる。薬の受け渡しでも、薬剤師の説明を丁寧に聞いて、神妙な顔で頷く。


「優しい彼氏さんですね」

 薬剤師の女性から声をかけられた。私の返事が少しだけ遅れる。代わりに直樹が返事を返した。


「ははっ。照れますよ。なにしろ、俺はこいつ一筋なんで」

 冗談のように言ってくるけれど、言葉と行動は、完璧に一致している。


 帰宅すると、直樹はさっそくお粥を作ってくれて、薬を飲む水まで、枕元に持って来てくれた。


「そこまでしてくれることないのに……」

「何言ってるんだよ。俺がやりたいからやってるんだよ。いつもだったら、もっと甘えるだろ? 『シロクマアイスが食べたい』とか『フルーツ買ってきてよ』とかさ」


 そう言いながら、私の好きなアイスを買いにコンビニまで走る直樹。


 彼が帰った後、食器は綺麗に洗ってあり、冷蔵庫には私の好きなリンゴジュースとポカリスエットが入っていた。


 ずきんと傷む心。

 絶対に言えない秘密。

 彼を傷つけたくなくて、この優しい関係を失うのも怖い。

 そんな理由で黙っている、ずるい私。



 やがて、クリスマスが訪れた。仕事終わりに、予約してくれていたレストランで食事をした。落ち着いた店内で、クリスマスらしい料理をゆっくり味わう。


 食事を終えて、直樹の部屋に戻ったあとだった。コートを脱いで、いつものようにソファに座る。そのとき、直樹が少しだけ落ち着かない様子で立ち上がった。一拍おいて、少し照れたように小さな箱を差し出す。


 中には、STAR JEWELRYの、シンプルなペアリング。付き合い始めてから、密かに欲しいと思っていたお揃いの指輪。直樹の前で口にしたのは一度きりのはずだ。


(直樹……覚えていてくれたんだ)


「前に欲しいって言ってただろ? 遅くなったけど、今がベストタイミングかなって。結婚指輪は、ちゃんと二人で選ぼうな」


 細くて、主張しすぎないデザインだった。仕事のときでも外さなくていい、と一目でわかる。


「ありがとう……嬉しい」


 そう言いながら、指輪をはめる指先が、少しだけ震えた。



 

 翌日の昼休み、私は昌子と並んで社食のテーブルに座ってい

た。私の右手薬指には直樹とのペアリングが光っている。


「ねえ、美咲の話聞いてるとさ」

 箸を止めずに、昌子が言う。

「直樹さんって、本当に理想的だよね。絶対いい旦那さんになるタイプよ」


「そうかな……」


「そうよ。優しいし、堅実だし、ちゃんと稼いでてさ。おまけに、掃除と料理が得意なんて神だわ」


 昌子は楽しそうに笑った。


「今度紹介してよ。直樹さんの友達で、独身の人いないかしら? 私、その人と結婚できたらいいなあ」


 冗談めかした口調だった。だから、私は笑って頷くしかなかった。けれど、実際に会わせる気はない。いいえ、会わせることができない、と言ったほうが正しいかもしれない。


(昌子にあのことを打ち明けたら笑って協力してくれる? それとも軽蔑して拒絶される?)


 言い出すこともできず、ただ曖昧に微笑んで誤魔化した。お昼休みは、まだ十分も残っている。以前なら昌子との会話も話題が尽きないのに、今日はそれ以上続かなかった。


◆◇◆


 それから一ヶ月後、私は直樹と一緒に、新しい物件を探していた。契約したのは、少し広めの2LDK。家賃は、彼の方がかなり多めに出すことになった。


「当たり前だろ」


 そう言って、彼はにっこり笑った。


「でも……」


 そう言いかけた私の言葉を遮るように、直樹は優しく私の頬に触れた。


「女性ってお金かかるだろ? 服とか化粧品とかさ。家賃や光熱費くらい、俺が多めに出すよ。わりと稼いでるし」


 一緒にお皿や日用品を買うときも当然のように直樹がお金をだして、「お揃いの茶碗っていいもんだなぁ」とほっこりした笑顔を見せた。


 引っ越した先、二人の部屋には開封前の段ボールが積み上げられている。少しずつ、直樹と私の荷物が同じ空間に並べられる。


「新しい家具を買おうか? 美咲、前に言ってただろ? ハーマンミラーの椅子が欲しいって。今度のボーナスで買ってやるから、楽しみにしてろ」


 あの出来事がある前だったら、当然のように頷き、大好きと言って抱きついたことだろうけれど、今の私は掠れた声で呟いた。


「うん……ありがとう」


 私は、受け取っていいのか分からない愛と信頼に戸惑いながらも、幸せそうな笑顔を浮かべようとする。直樹は私の異変に気づき、こちらに近づきながら微笑んだ。


「どうしたんだよ、元気ないぞ。心配なことがあったらなんでも言えよ。俺は、ずっと一緒にいるんだから」


 どうしようもない後悔が、涙になって溢れた。取り返しのつかない過ち。直樹が優しければ優しいほど、真っ直ぐな愛が眩しすぎた。


「ハーマンミラーの椅子を買ってもらえるのが、泣くほど嬉しかったのか? 俺もこんなに喜んでくれて嬉しいよ。ボーナスまで、ちょっと我慢な」


 抱きしめて、子供のように頭を撫でてくれる。

 何も知らないその手の温もりに、胸の奥が静かに痛んだ。

 それでも私は、彼の胸にしがみついた。

 この居場所を、自分の過ちで壊さないために……。






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