第2話:家族の冷遇

 その夜、俺は眠れなかった。


 ベッドに横になり、天井を見つめる。薄い毛布では寒さを防ぎきれず、体が震える。だが、それ以上に心が落ち着かなかった。


 明日、この家を出る。


 12年間過ごした場所を、離れる。


 思い出なんて、ほとんどない。あるのは、孤独と屈辱の記憶だけ。


 それでも——ここは、一応俺が育った場所だ。


(いや、育ったなんて言えないか)


 俺を育ててくれたのは、マルタだけだった。


 彼女がいなければ、俺はとっくに死んでいたかもしれない。


 窓の外では、月が静かに輝いている。満月だ。


 神界では、満月の夜は特別な力が満ちると言われていた。祖母メルシアが、よく満月の夜に俺を庭に連れ出して、月光浴をさせてくれた。


「ユート、月の光を浴びると、心が落ち着くのよ」


 祖母の優しい声が、記憶の中で蘇る。


「月は、全てを優しく照らしてくれる。どんなに辛い時も、月は変わらずそこにあるの」


 その言葉を思い出すと、少し心が落ち着いた。


(そうだ。俺には、神界での記憶がある)


 家族に愛された記憶。


 温かかった日々。


 それが、俺の支えだ。


(必ず、あの場所に帰る)


 そう誓って、俺はようやく眠りについた。


***


 翌朝、俺は早くに目を覚ました。


 荷物は昨夜のうちにまとめてある。簡素な布袋に、着替えと本と食料を詰めただけ。それが、俺の全財産だった。


 顔を洗い、身支度を整える。鏡を見ると、そこには不安と期待が入り混じった表情の少年が映っている。


「よし…」


 深呼吸をする。


 今日から、新しい人生が始まる。


 恐怖もある。だが、それ以上に、この家から解放される喜びの方が大きい。


 部屋を最後に見渡す。


 12年間過ごした、この狭く薄暗い部屋。


 壁の染み、天井の亀裂、固いベッド。


 全てに、嫌な思い出しかない。


「さよなら」


 呟いて、俺は部屋の扉を開けた。


***


 廊下に出ると、既にマルタが待っていた。


 彼女の目は赤く腫れている。泣いていたのだろう。


「ユート様…」


 彼女は俺を見ると、涙を溢れさせた。


「マルタ、泣かないで」


「でも…でも…」


 彼女は言葉を詰まらせる。


「ユート様は、何も悪いことをしていないのに…こんなのは、あんまりです…」


「大丈夫だよ。俺は強いから」


 そう言って、俺は笑顔を作る。


「それに、これはチャンスなんだ。俺、強くなって帰ってくるから」


「ユート様…」


 マルタは俺を抱きしめた。


 彼女の体は震えていて、涙が俺の肩を濡らす。


「どうか、どうかご無事で…」


「約束する。必ず、生きて帰ってくる」


 俺は彼女の背中を優しく叩く。


「マルタ、今までありがとう。お前がいてくれたから、俺はここまで生きてこれた」


「そんな…私は、何もできませんでしたわ…」


「いや、十分だよ。お前の優しさが、俺の支えだった」


 しばらく抱き合った後、マルタは俺から離れた。


 彼女は懐から、小さな包みを取り出す。


「これ…私からの餞別です。中には、保存食とお守りが入っています」


「ありがとう。大切にするよ」


 包みを受け取り、布袋に入れる。


「では、行ってくるよ」


「はい…お気をつけて、ユート様」


 マルタは深々と頭を下げた。


 俺は彼女に背を向け、階段を降りていく。


 後ろから、マルタのすすり泣く声が聞こえた。


***


 玄関に着くと、そこには既に父と兄たちが立っていた。


 母や姉たちの姿はない。最後まで、顔を見せないつもりらしい。


「来たか、ユート」


 父の声は、相変わらず冷たい。


「はい」


 俺は父の前に立つ。


 父は俺を見下ろし、その灰色の瞳には何の感情も浮かんでいない。


「馬車はもう用意してある。すぐに出発しろ」


「承知しました」


 そう答えて、俺は玄関を出ようとする。


「待て」


 父が俺を呼び止める。


「最後に一つだけ言っておく」


「…はい」


 父は少し間を置いてから、言った。


「お前がもし奇跡的に生き延びたとしても、二度とこの家には戻ってくるな」


 その言葉は、まるで氷の刃のように俺の胸に突き刺さる。


「お前は、もうウォーカー家の人間ではない。それを忘れるな」


「…承知しました」


 俺は感情を押し殺して答える。


 本当は、心の中で叫びたかった。


(そんなこと、言われなくても分かってるよ)


(俺は最初から、お前たちの家族じゃなかった)


 だが、それを口にしても意味はない。


「行け」


 父の命令に従い、俺は玄関を出る。


 外には、一台の古びた馬車が待っていた。御者は無表情で、俺を見ようともしない。


「よぉ、出来損ない。いよいよお別れだな」


 背後からレオナルドの声。


 振り返ると、彼とアルベルトが玄関に立っている。


「タルタロスでどれくらい生きられるかな? 一日? それとも数時間?」


 アルベルトが嘲笑的に言う。


「いや、着いた瞬間に魔物の餌だろう」


 レオナルドが笑う。


「まぁ、せいぜい頑張れよ。ああ、無理か。お前には何の力もないもんな」


 彼らの言葉を無視して、俺は馬車に乗り込む。


「おい、無視するなよ。最後くらい——」


 レオナルドがまだ何か言おうとしたが、俺は馬車の扉を閉めた。


 御者が手綱を握り、馬車が動き出す。


 窓から外を見ると、屋敷がどんどん遠ざかっていく。


 そして——二階の窓から、誰かがこちらを見ているのが見えた。


 栗色の長い髪。


 母だ。


 彼女は窓辺に立ち、こちらを見つめている。その表情は、悲しみに満ちているように見えた。


(今更、何を…)


 俺は窓から目を離し、前を向く。


 もう、振り返らない。


 この家族のことは、全て忘れる。


***


 馬車の中は狭く、揺れが激しい。


 だが、俺は気にしなかった。むしろ、この揺れが心地よかった。


 自由への第一歩。


 そう思うと、不思議と恐怖は消えていった。


 窓の外の景色を眺める。


 屋敷を出て、街道を進んでいる。道の両脇には、畑や民家が並んでいる。平和な田舎の風景だ。


 だが、進むにつれて、景色が変わっていく。


 畑が減り、森が増えていく。


 そして、空気も変わっていく。


 重く、濃密な魔力を含んだ空気。


 これが、大魔境タルタロスに近づいている証拠だ。


「なぁ、本当に行くのか?」


 御者が突然、話しかけてきた。


 中年の男性で、無精髭を生やしている。


「ああ」


「タルタロスだぞ。普通の人間が行けば、即死だ」


「分かってる」


「…まぁ、お前の人生だ。好きにしろ」


 御者はそれ以上何も言わなかった。


 馬車は、さらに奥へと進んでいく。


 森が濃くなり、木々は不気味なほど太く、高い。


 そして——空が暗くなってきた。


 いや、時間が経ったわけではない。タルタロスの上空には、常に厚い雲がかかっているのだ。


 太陽の光すら遮る、呪われた大地。


 それが、大魔境タルタロス。


***


 馬車がゆっくりと止まった。


「着いたぞ。降りろ」


 御者が冷たく言う。


 俺は布袋を背負い、馬車から降りる。


 目の前には、鬱蒼とした黒い森が広がっていた。


 木々は異様なほど太く、その幹は黒ずんでいる。枝は不自然に絡み合い、まるで巨大な蜘蛛の巣のようだ。地面には、見たこともない植物が生い茂っている。紫色の草、赤い蔦、そして発光する苔。


 空は厚い雲に覆われ、薄暗い。時刻は昼のはずなのに、まるで夕暮れのようだ。


 そして——空気が違う。


 濃密な魔力が、肌に纏わりつくように感じられる。


 呼吸をするだけで、体内に魔力が流れ込んでくる。


「ここが…タルタロス」


 呟く。


「じゃあな。せいぜい頑張れよ。ああ、無理か」


 御者は嘲笑を浮かべて、馬車を走らせる。


 あっという間に、馬車は視界から消えた。


 俺は、完全に一人になった。


***


 森の入り口に立ち、俺は深呼吸をする。


 恐怖はある。


 この森には、A級やS級の魔物が跋扈している。普通の人間なら、一瞬で殺されるだろう。


 だが——


(俺には、神界での記憶がある)


 戦い方も、魔法理論も、全て頭に入っている。


 問題は、暗黒神の呪いで力が封じられていること。


 だが、この濃密な魔力環境なら——


 試しに、手のひらに魔力を集めてみる。


 体内で魔力が動く。いつもなら、ここで暴走する。


 だが——


「…ん?」


 魔力が、静かに流れている。


 暴走しない。


 いや、完全に制御できているわけではない。だが、明らかにいつもより安定している。


「これは…」


 理解した。


 タルタロスの濃密な魔力環境が、暗黒神の呪いを中和しているのだ。


 呪いの力と、周囲の魔力がぶつかり合い、相殺している。


「ということは…ここでなら、修行ができる!」


 希望の光が見えた。


 この場所でなら、俺は封印された力を取り戻せるかもしれない。


「よし…」


 俺は布袋を背負い直し、森の中へと踏み出した。


 木々の間を抜けていく。


 地面は柔らかく、苔が生えている。足を踏み出すたびに、微かな光が放たれる。発光する苔だ。


 周囲は不気味なほど静かだった。


 いや、よく耳を澄ますと、遠くで何かの鳴き声が聞こえる。


 魔物の声だ。


 緊張が走る。


 俺は歩みを慎重にする。足音を立てないように、周囲を警戒しながら進む。


 神界での訓練を思い出す。


 父グランディオスから教わった、隠密行動の基本。


「敵地では、常に警戒を怠るな。音を立てるな。気配を消せ」


 父の厳しい声が、記憶の中で蘇る。


 俺は呼吸を整え、足の運びを意識する。


 体重を分散させ、できるだけ音を立てないように歩く。


***


 森を進んで、どれくらい経っただろうか。


 時間の感覚が曖昧になってくる。


 空は相変わらず暗く、時刻が分からない。


 だが、体の疲労から判断して、おそらく数時間は歩いているはずだ。


 喉が渇いた。


 布袋から水筒を取り出し、水を一口飲む。マルタが用意してくれたものだ。


「ありがとう、マルタ…」


 呟く。


 彼女の優しさが、今も俺を支えてくれている。


 水筒をしまい、再び歩き出そうとした時——


 ガサガサ。


 茂みが揺れた。


「!」


 俺は反射的に身構える。


 心臓が激しく鼓動する。


 茂みから、何かが飛び出してくる。


 それは——


「グルルル…」


 灰色の毛並みをした、巨大な狼だった。


 いや、普通の狼ではない。


 体長は2メートル以上。鋭い牙からは、涎が滴っている。赤く光る瞳が、俺を獲物として見定めている。


 魔狼だ。


 ランクはおそらくC級。普通の冒険者なら、3人がかりで倒すレベルの魔物。


「来たか…」


 俺は深呼吸をして、心を落ち着かせる。


 武器はない。


 魔法もまともに使えない。


 だが——俺には、神界での記憶がある。


 体術だけなら、まだ使える。


 魔狼が低く唸り声を上げる。


 そして——飛びかかってきた。


「くっ…!」


 俺は横に飛んで、攻撃を避ける。


 魔狼の鋭い爪が、俺がいた場所の地面を抉る。


 速い。


 だが、俺の目には見えている。


 神界での訓練で鍛えた動体視力。そして、父から教わった戦闘技術。


 魔狼が再び飛びかかってくる。


 今度は、避けない。


 俺は最小限の動きで体を捻り、魔狼の攻撃を紙一重で避ける。


 そして——その懐に潜り込む。


「はあっ!」


 拳を、魔狼の顎に叩き込む。


 ドゴッ!


 鈍い音が響く。


「ギャウン!」


 魔狼は大きく吹き飛び、木に激突した。


 地面に転がり、動かなくなる。


 気絶したようだ。


「はぁ…はぁ…」


 俺は膝に手をつく。


 初めての実戦。


 手が震えている。


 だが——


「やれた…」


 確かに、倒せた。


 武器もなく、魔法も使えない状態で。


 体術だけで。


(まだ、俺の中には力が残っている)


 神界での訓練が、体に染み付いている。


 呪いで封じられているだけだ。


 それを確信した瞬間だった。


「グルルル…」


 再び、唸り声。


 今度は、複数。


「…嘘だろ?」


 周囲の茂みから、次々と魔狼が現れる。


 5匹、いや、10匹以上。


 群れだ。


 そして、その中心には——


 一際大きな魔狼。


 銀色の毛並み、鋭い牙、そして赤く光る瞳。


 体長は4メートル以上。圧倒的な威圧感。


「魔狼王…」


 A級の魔物だ。


 これは、まずい。


 非常に、まずい。

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