第1章:虐げられし日々
第1話:家の恥
目が覚めると、そこは変わらない薄暗い部屋だった。
窓から差し込む朝日は、厚いカーテンに遮られてほとんど入ってこない。壁には無数の染みと亀裂が走り、天井の隅には蜘蛛の巣が張っている。ベッドは固く、薄い毛布は冬の寒さを防ぐには不十分だった。
ここは、ウォーカー侯爵家の屋敷。この国でも指折りの名門貴族の邸宅だ。
だが、俺が住んでいるのは、その最奥にある、使用人部屋よりも狭く粗末な部屋。
俺の名前は、ユート・ウォーカー。この侯爵家の三男として、12年前に生まれた。
そして今日は、俺の12歳の誕生日だ。
だが、この部屋には誰も祝いに来ない。いや、来るわけがない。
なぜなら、俺はこの家で「恥」とされているのだから。
ベッドから起き上がり、小さな鏡を見る。そこに映るのは、やや長めの黒髪と、深い紺碧の瞳を持つ少年。身長は152センチメートルと、同年代の中では平均的。体重は42キログラムと、少し痩せている。それも当然だ。俺に与えられる食事は、いつも冷めたパンと薄いスープだけなのだから。
顔を洗おうと、部屋の隅にある水差しに手を伸ばす。水は冷たく、指先が痺れる。だが、これも慣れたものだ。
窓の外からは、庭で剣の稽古をする兄たちの声が聞こえてくる。
「ハァァッ!」
力強い掛け声。長男レオナルドの声だ。
彼は22歳で、既に一流の剣士として名を馳せている。炎神イフリートの加護を受け、炎を纏った剣技を使いこなす天才だ。家督を継ぐ立場にあり、父からの期待も大きい。
「兄さん、今日も冴えてるな!」
次男アルベルトの声も聞こえる。彼は18歳で、雷神トールの加護を受けた魔法使いだ。その雷撃魔法は、既に上級魔法使いの域に達していると言われている。
そして俺は——
手のひらに魔力を集めようとする。体内で魔力が渦を巻き、暴走しかける。慌てて魔力の流れを止める。
「はぁ…」
深いため息が漏れる。
これが、暗黒神ニクスの呪いの効果だ。
俺の魔力は常に不安定で、まともに魔法を使うことができない。神界にいた頃の力は完全に封じられ、今の俺は魔法一つ満足に使えない落ちこぼれだ。
神官が俺に魔力測定をした時のことを思い出す。あれは、生まれて間もない頃だったはずだが、神界での記憶を持つ俺には、鮮明に覚えている。
「こ、これは…暗黒神の呪い!? この子は、暗黒神に呪われています!」
神官の絶望的な声。
それを聞いた父の顔が、一瞬で凍りついた。
「呪われた子供など、我が家には必要ない」
冷たい、冷たい声。
それから12年。俺は家族から愛されることなく、虐げられながら、ただ生きてきた。
***
コンコンと、控えめなノック音が聞こえる。
「ユート様、朝食をお持ちしました」
優しい女性の声。メイドのマルタだ。
「入って」
扉が開き、40代くらいの女性が盆を持って入ってくる。灰色がかった髪を後ろで一つに束ね、優しげな茶色の瞳が俺を見つめる。彼女の顔には深い皺が刻まれているが、その笑顔は本物だ。
「おはようございます、ユート様」
「おはよう、マルタ」
彼女は俺に親切にしてくれる、数少ない人物の一人だ。他の使用人たちは、主人一家に倣って俺を冷遇するか、あるいは無視する。だが、マルタだけは違う。
「今日は…お誕生日ですね」
彼女は盆を小さなテーブルに置きながら、申し訳なさそうに言う。
「ああ」
「おめでとうございます」
心からの祝福の言葉。それが、どれほど嬉しいか。
「ありがとう、マルタ。お前だけでも覚えていてくれて、本当に嬉しいよ」
「そんな…当たり前のことですわ」
彼女は少し目を潤ませながら、微笑む。
「本当は、もっと豪華な食事をお持ちしたいのですが…」
「気にしないで。これで十分だ」
盆の上には、いつもと同じ冷めたパンと薄いスープ。それに加えて、小さなリンゴが一つ。
「そのリンゴは、私からのささやかなプレゼントです。庭で採れたものですが…」
「ありがとう。大切に食べるよ」
マルタは嬉しそうに微笑むと、部屋を出て行った。
一人になると、俺はパンを手に取る。固くて、味気ない。だが、これが俺の日常だ。
スープを口にする。塩味だけの、具の入っていないスープ。温かくもない。
そして、最後にリンゴを手に取る。小さいが、綺麗に磨かれている。マルタの優しさが伝わってくる。
一口齧ると、甘酸っぱい味が口の中に広がる。
(美味しい…)
涙が出そうになる。
こんな小さな優しさが、どれほど心に沁みるか。
だが、同時に思う。
(俺は、いつまでこんな生活を続けるんだろう)
12年間、耐えてきた。
家族からの冷遇、兄姉からの虐め、周囲からの蔑視。
全てを、じっと耐えてきた。
だが、もう限界に近い。
いや、正確には——もう、ここにいたくない。
神界での記憶が、少しずつ鮮明になってきている。優しかった家族、温かかった日々。それと比べて、この12年間はあまりにも辛すぎた。
(そろそろ、何かが起こる気がする)
漠然とした予感。
だが、その予感は的中することになる。
***
朝食を終えた後、俺は部屋の掃除を始めた。
誰もやってくれないから、自分でやるしかない。箒で床を掃き、雑巾で窓を拭く。埃だらけの部屋を、少しでも綺麗にしようと努力する。
その時、廊下から足音が聞こえた。
複数人の足音。そして、聞き覚えのある笑い声。
「なぁ、今日はあの出来損ないの誕生日らしいぞ」
長男レオナルドの声だ。
「へぇ、12歳か。それでもまだ、魔法一つまともに使えないんだろ?」
次男アルベルトの声。
「情けないわね。私が12歳の頃は、もう氷結魔法を完璧にマスターしていたのに」
長女イザベラの声も聞こえる。
俺は手を止め、じっと耳を澄ます。
「祝いに行ってやるか? ああ、でも関わりたくないな」
「はは、確かに。近づいただけで不幸が伝染しそうだ」
彼らの笑い声が、廊下に響く。
俺は拳を強く握りしめる。
(慣れてる…慣れてるはずなのに)
それでも、やっぱり心が痛む。
彼らは俺の兄姉だ。同じ血を分けた家族のはずだ。
だが、彼らにとって俺は、家族ですらない。ただの「恥」でしかない。
足音が遠ざかっていく。
彼らは俺の部屋の前を通り過ぎ、それぞれの部屋へと向かっていったようだ。
俺は再び、掃除を再開する。
(もう、気にしないようにしよう)
そう自分に言い聞かせる。
だが、心の奥底では分かっている。
この生活は、もう限界だと。
***
昼が近づき、俺は部屋で一人、本を読んでいた。
この部屋には娯楽らしい娯楽はないが、古い本が何冊か置いてある。魔法理論の本や、歴史の本。誰かが捨てようとしたものを、マルタが拾ってきてくれたのだ。
魔法理論の本を開く。複雑な魔法陣の図と、難解な説明文。
だが、神界での記憶を持つ俺には、これらの内容は理解できる。むしろ、母エリディアから学んだ魔法理論と比べれば、基礎的な内容だ。
(理論は分かる。でも、実践できない)
それが、俺の現状だった。
暗黒神の呪いが、全てを台無しにしている。
手のひらに魔力を集めようとするが、またしても暴走しかける。
「くっ…」
慌てて魔力を分散させる。
制御できない。
どれだけ練習しても、どれだけ努力しても、この呪いは俺を縛り続ける。
(でも、いつか必ず…)
諦めない。
神界での記憶がある限り、俺はいつか必ず力を取り戻せるはずだ。
その時——
扉が乱暴にノックされた。
「おい、ユート。いるんだろ?」
レオナルドの声。
嫌な予感がする。
「いるよ」
「開けろ。話がある」
仕方なく、扉を開ける。
そこには、レオナルド、アルベルト、そしてイザベラが立っていた。
レオナルドは185センチメートルの長身で、筋骨隆々とした体格。短く整えた黒髪と、深紅の瞳が特徴的だ。その顔には、常に傲慢な笑みが浮かんでいる。
アルベルトは178センチメートルで、ミディアムの無造作なダークブラウンの髪。琥珀色の瞳には、どこか陰湿な光が宿っている。
イザベラは170センチメートルの長身で、腰まで届くプラチナブロンドのストレートヘア。氷青色の瞳は、まるで凍てついた湖のように冷たい。
「何の用?」
俺が問うと、レオナルドはニヤリと笑った。
「なんだ、その態度は。兄に対する口の利き方か?」
「…申し訳ございません」
「まぁいい。今日はお前に、良い知らせがある」
「良い知らせ?」
嫌な予感が、さらに強くなる。
「ああ。お前、今日から一人暮らしができるぞ」
「…どういう意味?」
レオナルドは、さらに笑みを深める。
「父上がな、お前を追放することに決めたんだよ」
その言葉を聞いて、俺の心臓が一瞬止まった。
「追放…?」
「そうだ。お前みたいな出来損ないは、もうこの家には必要ないってさ」
アルベルトが嘲笑的に付け加える。
「流刑先は、大魔境タルタロスだってよ。ああ、知ってるか? A級やS級の魔物がウジャウジャいる、死の大地だ」
イザベラが冷たく言い放つ。
「まぁ、お前のような恥晒しが家にいるよりは、死んでくれた方がマシだけどね」
彼らの言葉が、俺の胸に突き刺さる。
追放。
タルタロス。
死の大地。
だが——
(これは…)
不思議と、恐怖よりも、ある種の解放感が湧き上がってきた。
「昼食の時に、父上から正式に伝えられる。せいぜい、最後の食事を楽しめよ」
レオナルドはそう言い残して、三人は去っていった。
俺は部屋に戻り、ベッドに座る。
(追放…か)
12年間、この家で耐えてきた。
だが、もうそれも終わりだ。
(これは、むしろチャンスかもしれない)
タルタロスは確かに危険だ。だが、そこは人里離れた場所。誰の目も気にせず、修行ができる。
神界での記憶を持つ俺なら、きっと生き延びられる。
そして——力を取り戻せるかもしれない。
リリアナとの約束を果たすために。
家族を見返すために。
そして、本当の強さを手に入れるために。
「よし…」
俺は立ち上がり、窓の外を見る。
遠くに見える黒い森。
あれが、大魔境タルタロスだ。
あそこが、俺の新しい人生の始まりになる。
(待ってろ、タルタロス)
(俺は必ず、生き延びてみせる)
拳を握りしめ、俺は決意を新たにした。
***
正午になり、俺は食堂に呼ばれた。
普段は部屋で一人で食事をするのだが、今日は特別らしい。いや、特別と言っても、良い意味ではないのだろう。
食堂の扉を開けると、そこには既に家族全員が揃っていた。
長いテーブルの上座には、父ガルバートが座っている。
188センチメートルの威圧的な体格。オールバックにした黒髪には白髪が混じり、灰色の瞳は常に冷徹な光を放っている。剛力強化と覇気放出の能力を持ち、戦神グランディオスの加護を受けた、この国でも指折りの戦士だ。
その隣には、母エリザベスが座っている。
165センチメートルで、腰まで届く栗色のウェーブロングヘア。エメラルドグリーンの瞳は、かつては優しさに満ちていたのかもしれないが、今は俺を見ようともしない。慈愛の女神メルシアの加護を受けているはずなのに、彼女は俺に慈愛を注ぐことはなかった。
そして、兄姉たちも全員座っている。
俺の席は、テーブルの最も端。まるで召使のような扱いだ。
「遅いぞ、ユート」
父の冷たい声が響く。
「申し訳ございません」
俺は急いで席に着く。
テーブルの上には、豪華な料理が並んでいる。ローストチキン、野菜のスープ、焼き立てのパン、そして色とりどりのデザート。
だが、俺の前には、いつもと同じ冷めたパンと薄いスープだけ。
「さて、食事の前に話がある」
父が全員を見渡す。
「ユート、お前は今日限りでこの家を出ていくことになった」
予想していた言葉。だが、実際に聞くと、やはり胸が痛む。
「理由は分かるな?」
「…はい」
「お前は暗黒神に呪われた、忌まわしい存在だ。12年間、我が家はお前を養ってきた。だが、もう限界だ」
父の言葉は、感情の欠片もない。
「流刑先は、大魔境タルタロス。そこでお前の余生を過ごせ」
「父上…」
俺は母に目を向ける。
だが、彼女は視線を逸らすだけ。
「母上…お願いです。もう一度、考え直してください」
俺は縋るような声で言う。演技だ。本心では、もうこの家を出たいと思っている。だが、一応は家族なのだから、こうして懇願するふりをする必要がある。
「…仕方ないことなのよ、ユート」
母の声は震えていた。
きっと、心のどこかでは罪悪感を感じているのだろう。だが、それを表に出す勇気はない。
「母上は、慈愛の女神メルシア様の加護を受けているはずです。その加護の意味を、お忘れになったのですか?」
俺の言葉に、母の顔が少し歪む。
「それは…」
「やめろ、ユート」
父が低い声で制する。
「母を責めるな。これは私が決めたことだ」
「しかし——」
「明日の朝、馬車を用意する。荷物をまとめておけ」
父は有無を言わさぬ口調で言い切った。
「以上だ。下がれ」
「…承知しました」
俺は席を立ち、食堂を後にする。
後ろから、兄姉たちの笑い声が聞こえてくる。
「ざまあないな」
「当然の報いよ」
その声を背中に受けながら、俺は廊下を歩く。
***
部屋に戻り、俺はベッドに座った。
拳を強く握りしめる。
(やっぱり、こうなったか…)
神界にいた頃から、ある程度は予想していた。
暗黒神の呪いは、俺を徹底的に不幸にする。それが、ニクスの狙いだった。
だが——
(これで、逆にチャンスが来た)
自由になれる。
この息苦しい家から、解放される。
そして、大魔境タルタロス。
(あそこなら、誰の目も気にせず、修行ができる)
神界での記憶が、少しずつ鮮明になってきている今、タルタロスは最高の修行場になる可能性がある。
魔物との実戦を通じて、封印された能力を解放できるかもしれない。
(俺は、必ず強くなる)
窓の外を見る。
遠くに見える黒い森。
あれが、俺の新しい人生の舞台だ。
「待っててくれ、リリアナ」
呟く。
彼女の顔が、脳裏に浮かぶ。
金色の髪、サファイアブルーの瞳、そして優しい笑顔。
彼女だけは、俺に優しくしてくれた。
唯一の光だった。
「必ず、生きて帰る。そして、お前との約束を果たす」
決意を胸に、俺は荷物をまとめ始めた。
といっても、持っていくものはほとんどない。
着替えが数枚、マルタがくれた古い本が数冊、そしてわずかな食料。
それだけだ。
武器も、防具も、金もない。
だが、それでいい。
俺には、神界での記憶がある。
それが、最大の武器だ。
(明日から、新しい人生が始まる)
窓の外の星空を見上げる。
星々は、いつもより明るく輝いているように見えた。
まるで、俺の新しい人生を祝福しているかのように。
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