第2話
指定地点は、低い尾根の途中にある岩場だった。
尾根と呼ぶには心許ない起伏だが、周囲よりわずかに高いだけで、視界と風向きは確保できる。
むき出しの岩盤が斑に露出し、かつては森だったのだろう、幹を断ち切られた切り株が無秩序に点在している。
土は何度も踏み固められ、柔らかさを失っていた。靴底が沈むことはない。その表面には乾ききった血が染み込み、黒ずんだ斑点として残っている。拭われた形跡はない。ただ、上から踏み均されただけだ。
ここ数日……いや、もっと前から何かが、ここを行き来している。
魔女抹殺の任務の前に、ベルから伝えられていた王種の先行部隊。
それの撃退に今はあたっていた。シェディが偵察で得た情報によると今回の王種は知性があるらしく、眷属に先へ行かせ障害を全て排除してから進んでいるらしい。
今回は敵の戦力を削る、そして先行部隊を殺すことによる情報伝達の遅延。
それが主な目的だ。
シェディは岩陰に身を寄せると、ほとんど音を立てずに腰を落とした。
膝を折る角度は浅く、すぐに立ち上がれる姿勢を保っている。外套の裾が足元に触れそうになるのを感じ、無意識に指先で引き寄せて整えた。
そのまま、胸元から双眼鏡を取り出した。
肘を岩に固定する。
肩の力を抜き、呼吸をゆっくりと落とす。
風が吹き抜け、銀色の髪が揺れかける。
彼女は首をわずかに傾け、その流れを受け流した。指で押さえるほど大きな動きはしない。
双眼鏡越しではない自分の目に映るのは、赤黒い空の下に広がる森だけだった。
木々は所々倒れていたり、枝が折れている。中には全ての木がなくなっている場所さえある。
木々のその隙間。
影の奥で、何かが蠢いているのが目視でも確認できた。
「……うわ」
シェディの口から思わずといった様子で零れた声は、吐息に近かった。
自覚した瞬間、彼女は口を閉じる。声が大きすぎたかもしれない、といった顔をしている。
隣で同じように身を低くして報告を待っていたが、顔だけをそちらへ向けた。
視線だけを鋭くして尋ねる。
「今度は何だ」
問いというより、確認だ。必要最低限の情報だけを求めている。
何か想定外かと勘繰ってしまう。
「数がかなり多い、キモイくらい」
シェディは双眼鏡を下ろさない。
視線は森の奥に縫い止められたままだ。
「多い基準を聞かせろ」
視線を戻しながら言う。
身体は動かさない。動かせばその分、音が出る。
「私基準で、嫌な感じの多さ」
双眼鏡の縁が、ほんのわずかに揺れた。
彼女自身も、それが曖昧な返答だと分かっている。
「参考にならない」
「でもグリム基準でも、たぶん嫌な感じ」
そこでようやく、シェディは双眼鏡から目を離した。
首だけを少し傾け、岩陰の影の中で俺を見る。その口元に、かすかな笑みが浮かんでいた。
冗談めかしているが、目は真剣だ。
「……六十以上。小型主体。密度が高いね、大型種も多いし……っていうか先行部隊でこの規模だと
それを聞いて、視線を敵陣の方角へ戻し、ゆっくりと息を吐く。
「……
声に、驚きはない。落胤個体がいる可能性は考えていたが恐らく大丈夫だろう。前に単独で討伐したこともある。大型種より少し力が強く、素早いだけの雑兵だ。
想定の範囲内。落ち着いてこれから俺達が取るべき行動を探っていく。
「想定ルート上か?」
「うん、ちょうど指定地点の向こう側。逃げ道も塞ぎかねない位置」
シェディは双眼鏡を畳む。
金属音が鳴らないよう、指先で押さえながら。岩陰へ戻る動きは静かで、無駄がない。外套の影に、銀色の髪がすべり込む。
「状況は最悪寄りだな」
短く言う。
「でも最悪ってほどじゃないでしょ?」
彼女は膝を抱えるように座り直す。短剣の柄に、親指を軽くかけた。
「最初から分かってたことだし、ね?」
「……そうだな」
それに小さく頷く。
地面に視線を落とし、砂利を踏まないよう足の位置を数センチだけずらした。
「数が見えてるだけマシだ。見えないよりはずっといい」
「でしょ」
「ああ、見えない敵程、厄介なものはない」
把握できていない状況は、それこそ最悪だ。
奇襲の警戒、そしてそこに割かれる意識、どれも俺達の命に鎌をかけている。戦闘時には常に周囲を警戒しているわけだが、心配の種は少しでもなくした方がいい。
それを聞いて、シェディは肩をすくめる。
動きは小さいが、緊張を逃がす仕草でもあった。
「こうゆう場面の双眼鏡って、ほんと好き。覗いた瞬間に眷属獣を見て、殺せるか殺せないかが分かるし」
「……なんだそれ、嫌な才能だな」
「生き残るための才能だよ」
その言葉と同時に、彼女の表情が一瞬だけ引き締まる。
冗談の裏にある現実が、確かにそこにあった。
「それで、どうするの? 奇襲かける? 多分あれが先行部隊だよ、王種が産まれた日数から計算して、そんなに眷属はつくれてないはずだから……あれは三分の一くらい?の数だと思うけど」
「……まずは距離を保ったまま出来るだけ削る」
グリムは腰を落としたまま、地面に指で簡単な円を描いた。
砂が薄く動くだけの、小さな動作。
「近づかないの?」
「近づく理由がないだろ」
そう言って、腰から導器を抜いて魔力を静かに込め始める。
薄く、静かに、敵の探知に引っ掛からないように。
「幸い、先行部隊だからか散らばって動いている個体が多い。それは目視でも確認出来る。恐らく王種から大雑把な命令しかされてないんだろう」
導器に魔力が込められていく。
貫通力と弾距離を延ばす形へと込め方を変える。
「なら一体ずつ、確実に殺していく」
導器の杖底を方へ置き、最も自分が狙撃しやすい態勢へ体の向きを変える。
「シェディ、双眼鏡で敵の位置を教えろ」
「……はいはい、分かったわよ。というか本当によく出来るわよね、導器に刻まれた魔法術式構築を弄るなんて」
導器に刻まれた魔法術式を弄る。
言葉にするのは簡単だが、そう簡単なことではない。
代行者ならばともかくただの魔紋を宿した人間が、神の祝福である魔法の構築術式をその時だけとはいえ改変し、捻じ曲げるなんて本来ならば不可能だ。
けれど、俺には可能だった。
その状況に合わせて導器に刻まれた魔法の形を変えることが出来た。それでも魔法術式の効果や魔法そのものを変えることは出来ない。出来るのは射程距離、威力、軌道、こんな所だ。それでも異常なのだが。
教会の連中の目の前で使ったりしたら、異端認定でもされて魔紋を封じられるだろう。まぁ、殺されはしないだろうが。
魔女部隊はその高い死亡率から、いつでも人員不足ではあるからな。
シェディが双眼鏡を取り出し、報告を始める。
「……右端、手前から三体目。距離……二百七。風、横から少しだけ。問題なし」
「中央の塊、密集。二百四十前後。奥の大型、二百九十。次は―――」
敵の数、位置、小型種大型種に分けての危険度、その全てを頭に入れて優先順位を確定させていく。
「……敵捕捉。射程、角度、適度調整――」
「――
数発の発射音。着弾の音、倒れた音も確認出来ず。
けれど視線を外さずに告げる。
「着弾を確認、次の
そして数分後。
シェディは双眼鏡を目元に固定したまま、わずかに顎を引いた。呼吸は浅く、一定のリズムを保っている。まばたきの回数すら数えているかのように、視線が微動だにしない。
「……二十三体、処理完了」
感情の起伏はない、報告は事実のみを告げていた。
「散開してた分は、これで終わり。残りは奥の密集群」
言葉と同時に、双眼鏡の倍率が微かに変わる。カチ、と小さな音が岩陰に吸い込まれた。
シェディは双眼鏡を下ろさず、レンズ越しに視線を走らせ続けていた。銀色の髪が風に煽られ、外套の隙間から流れるように揺れる。だがその髪色はすぐに暗色の布に飲み込まれた。
そこで気付く。
双眼鏡を覗くシェディの首の角度が、ほんの少し、左へずれていることに。
「……まだ数えてる顔だな、なんだ死骸の数でも数え間違えたか?」
導器から顔を離さないまま、視線だけ一瞬シェディへ向け、そう言う。
「そんなわけないでしょ、アンタじゃあるまいし」
シェディは小さく息を吸い、双眼鏡の焦点を調整する。
細い手の指先が、慣れた動きでまたリングを回す。
「……ねえ、グリム。さっきの狙撃の三体目、ちょっと動き鈍かったでしょ」
「ああ。大型への変異が丁度途中だったんだろう。大型獣の皮を被った中型寄りだ」
「……そうよね、だから栄養を補給したくて少し前に出てた」
会話は静かだが、どちらも視線は前方から外していない。
遠景には、倒れた歪獣の死骸が不規則に転がり、黒ずんだ血が地面に染み込んでいる。その向こう、岩陰と枯れ木が混じる低地は、いまや不自然なほど静まり返っていた。
風が止む。
一瞬、世界から音が消えたような沈黙。
シェディの倍率を変える指が、双眼鏡の縁で止まった。
「……おかしい」
その一言で、背筋がわずかに張る。
「報告を」
「……死骸の配置がさっきと違う」
彼女は言葉を選びながら、視線をさらに奥へ送る。
「撃ち漏らしはない、引きずった痕もない。でも死骸の位置が微妙に変わってる」
その報告に眉をひそめる。倒した歪獣は、その場で崩れ落ちる。歪獣といっても生物だ、死後の痙攣をすることはあるかもしれないがその可能性は少ない。他にも理由はあるかもしれないが、今大事なのは――
「……嗅がれたか?」
「多分ね、血と魔力の残滓を嗅がれた。嗅覚に優れた個体がいる」
最悪を想定することだ。
シェディが死骸の位置、数を間違えることはない。
なら狙撃位置まではバレてはいないが仲間を殺した敵がいると、獣に気付かれたと仮定して動くべきだ。
ならここから、
「待って」
声は落ち着いている。
けれど、その奥にある緊張は彼女自身が一番よく理解していた。
遠方に散っていたはずの歪獣の群れ。
導器狙撃で削り取った二十数体。その空白を不自然だと判断した個体がいる。
――
「左、斜面下。距離は……もう百切ってる。早い」
「十分」
そう言って、導器を背に回す。
金属が擦れる音を、外套が吸い込む。
そして、もう必要なくなった外套を脱ぎ捨てる。脱ぎ捨てた動作のまま、流れるように腰の剣へと右手を落とす。
その瞬間だった。
茂みが爆ぜると同時に地を蹴る音。
歪んだ骨格が無理やり前進する、不快な連続音。
気付いた時には、もう距離という概念は消えていた。
――接敵。
最初の一体は、グリムの正面から飛び出してきた。
細長い顎を大きく開き、裂けた喉から息とも鳴き声ともつかない音を吐き出す。
下がらない。
踏み込む。
身体を沈め、重心を落とし、刃を置く。
剣が喉元に吸い込まれるように突き立ち、捻られ、抜かれるまでが一動作だった。
血が噴き上がる前に横なぎに両断され、小型歪獣は力を失って崩れ落ちる。
同時だった。
シェディの側面から、もう一体。
彼女は振り返らずに逆手に持った短剣を、肘を畳んだまま後方へ滑らせる。
短剣が肋の隙間を正確に捉え、臓器を断つ感触が、手首に伝わる。
彼女は一瞬だけ目を伏せ、そして短剣を引き抜いた。
どさり、と二つの死骸が地面に落ちる音。ほんの一呼吸、二秒にも満たない攻防だった。
「……静かじゃ、済まなくなったわね」
シェディはそう言いながら、短剣を指の間に収めている。
口元はわずかに笑っているようにも見えたが、それは戦闘前の癖だとグリムは知っていた。
「元からこうする予定だった。静かに事を済ませるなんてあの状況じゃ無理だ」
「それもそうね」
周囲を見回す。血に濡れた地面。踏み荒らされた草。
倒れた歪獣の影が、赤い闇の中で不気味に伸びている。
その向こう。
確実に、こちらへ向かってくる数がある。残りの先行部隊だろう。
「やっぱり嗅ぎつけられたか。つまり――」
「 「 遅かれ早かれ、本隊も動く 」 」
二人の声が重なった。
シェディは軽く肩をすくめる。
「予想より、五分早いわ。けど……」
彼女は短剣を一度空で回し、しっかりと握り直した。
「こいつらだけ殲滅したら、私達本来の仕事に集中できるわ。さっさと片付けましょう」
それに、ほんのわずか口角を上げるだけで応えた。
「ああ」
遠くで、複数の足音が重なり合い地面を震わせ始める。
最低でも三十程、少し別と合流したか? まぁいい。
「――獣狩りだ」
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