きゅあ。

しちめんちょう

きゅあ。

――酷く、喉が渇く。

瞼を開くと、天井が水槽を覗き込んだかのように、ゆらり、ゆらりと揺れていた。


熱がある。


体を起こすのと同時に、激しい頭痛と目眩に襲われた。

視界が、不規則に明滅する。

私は鉛のように重い手足を叱咤し、机に向かって一歩を踏み出した。


机にたどり着くと、迷いなく鍵のかかった引き出しに手を伸ばした。


取り出したのは白い錠剤だった。


その錠剤を、水で体内に無理矢理流し込む。


大丈夫。妻は寝ている。ばれるはずもない。


そう自分に言い聞かせながら、重い体を引きずってベッドへ戻っていった。



翌朝。

 私の期待は、粘りつくような湿気とともに裏切られた。

​ 熱は下がってはいた。だが依然として高熱は続いていた。熱で体の輪郭が布団のシーツと溶け合っていく。


 もう一回飲むか。


​「……あなた?」


​ ふすまが開く音がして、見ると妻が顔を覗かせていた。

 逆光で表情が見えない。だが、その声は鳥肌が立つほど優しく、慈悲に満ちていた。


​「うなされていたわよ。顔色が土気色」


​ 妻が枕元に座り込み、私の額に手を当てる。その手は爬虫類のようにひやりとしていて、気持ちがいいのと同時に、生理的な嫌悪感が背筋を走った。


​「すごい熱。……まさか、昨日の夜、隠れて『アレ』を飲んだりしていないわよね?」


​ 心臓が、どくんっと打つ。

 私は干からびた喉を鳴らし、必死に声を絞り出した。


​「まさか。……あんな、毒物を」

​「そうよね。あなたがそんな馬鹿なこと、するはずないもの」


​ 妻はふふ、と笑うと、背後に隠していた両手をおもむろに差し出した。

 そこには、湯気を立てているマグカップがあった。

​「これを飲みなさい。高橋さんの畑の土を煎じて、清めてもらった特製の『御水』よ。さっきもらってきたばかりなの」

​ カップの中身は、どろりと黒く濁っていた。

 鼻を突くのは、雨上がりのアスファルトと、腐った落ち葉を混ぜ合わせたような匂い。

 この世界における、万能薬だ。

​「……ありがとう」

​ 私は震える手でそれを受け取る。

 飲まなければならない。飲んで、感謝しなければならない。そうでなければ――


​ 意を決して、泥水を口に含む。

 ジャリ、と砂が歯に当たる音が頭に響いた。

 喉が痙攣し、胃袋が拒絶するように悲鳴を上げる。それでも私は、笑顔のようなものを貼り付けて、それを飲み下した。


​「偉いわ。きっとすぐに良くなる」


​ 妻は満足そうに空のカップを受け取ると、カーテンを勢いよく開け放った。


 部屋の中に、ぬるりとした虹色の光が雪崩れ込んでくる。

 私は反射的に目を細めた。網膜の裏側で、光の粒子がザラザラと暴れ回るような不快感があった。

「見て、あなた。素晴らしい天気」

 妻が指差す先、薄い膜のような空の向こうに、それはあった。

 

 巨大な彗星。

 

 長く伸びた尾は、毒々しい紫色の光を放ちながら昼間の空を切り裂いている。

 それが空に開いた巨大な「傷口」のように見えた。

そこから膿のように、世界の理を溶かす何かが降り注いでいる。


「今日は『接近の日』よ。本当なら私が山へお供えに行くつもりだったのだけれど……」

 妻は困ったように眉を下げた。

 それから彼女は私の顔を覗き込んだ。

「あなた、会社に行くんでしょう? だったら、ついでにお供えしてきてちょうだい」

「……え?」

 私は耳を疑った。

 この高熱だ。会社どころか、立ち上がるのさえやっとの状態なのに。

 けれど妻は、慈愛に満ちた瞳で微笑んでいる。

「だって、その熱。体に悪いものが溜まっている証拠でしょう? 仕事の前に山へ行って、神聖な空気を吸えば、きっとすぐに治るわ」

「……分かった。行ってくるよ」

 拒否権などない。私はフラつく足に力を込めて立ち上がった。

 妻から手渡されたのは、ずしりと重い風呂敷包みだった。中身は聞かなくても分かる。あの腐ったような匂いのする果物や、泥水の入った瓶だろう。

 ◇

 玄関を出ると、暴力的な湿気が全身にまとわりついた。

 空気そのものが質量を持って、肺を圧迫してくるようだ。

 アスファルトの道は、高熱による陽炎か、あるいは本当にそうなのか、生き物のように脈打って見えた。

 道端の側溝からは、ボウフラが羽化する音が、耳鳴りのように絶え間なく響いている。

 私は重い足を運んだ。

 一歩進むたびに、世界が少しずつ傾いていく錯覚に襲われる。

 すれ違う人々は皆、首から奇妙な形のお守りをぶら下げて、ブツブツと何かを呟いている。


 誰も私を見ない。彼らが見ているのは、頭上の彗星だけだ。


​ ふと、通りの向こうが騒がしいことに気がついた。

 スーパーマーケットの裏手、ゴミ捨て場のあたりに人だかりができている。

 集まっているのは、近所の主婦や通勤途中のサラリーマンだった。

 彼女たちは楽しげに談笑しながら、中心にいる「何か」に向かって、石を投げていた。

​「この世界は科学で満ちている!皆、目を覚ませ!」

​ 中心から、悲鳴のような叫び声が聞こえた。

 私は足を止めた。

 そこにうずくまっていたのは、眼鏡をかけた痩せた男だった。額から血を流し、泥まみれになりながら、必死に何かを叫んでいる。

​「雨は神の涙じゃないし、彗星はただの氷だ!調べれば分かるだろ!」

​ 男が叫ぶたびに、ドス、という鈍い音が響く。

 主婦の一人が投げた拳大の石が、男の肩に命中したのだ。

​「あらあら、まあまあ」

「まだあんな妄言を」

「可哀想に。悪魔に魂を食われているんだな」

​ 主婦たちは慈悲深い表情で、次々と石を投げる。

 それは虐待の光景ではなかった。彼女たちにとって、これは「穢れ」を払い、迷える魂を救済するための神聖な儀式なのだ。

​ 私はその光景に釘付けになった。

 男が抱えている鞄から、教科書のようなものが散乱している。

 『物理学入門』。

 その表紙が、またたく間に泥と血で汚されていく。

 まるで、私の行き先を見せられているようだった。


​「あら、木村さんじゃない?」

​ 不意に声をかけられた。

 振り返ると、隣の家に住む佐藤さんが立っていた。買い物かごの中には、ネギや大根と一緒に、手ごろな大きさの石がいくつか入っている。

​「……おはようございます、佐藤さん」

​ 私がしわがれた声で挨拶すると、佐藤さんは私の顔をじっと覗き込んだ。

​「顔色が悪いわね。熱があるんじゃない?」

​「ええ、少し」

​「だったら、ちょうどいいわ」

​ 佐藤さんは買い物かごから、ゴツゴツした石を一つ取り出し、私の手に握らせてきた。

 石は冷たく、そして生々しい重さがある。

​「あなたも投げなさいな。悪いものが憑いているから、熱が出るのよ。ああやって穢れた人に石をぶつければ、厄落としになって熱も吹っ飛ぶわよ」

​ 佐藤さんは、焼きたてのクッキーでも勧めるような笑顔で言った。

 周囲の主婦たちも、私を見てニコニコと頷いている。

 さあ、投げなさい。

 正しくありなさい。

 こちらの世界に来なさい。

​ 私は手の中の石を見た。

 そして、うずくまる男を見た。

 男と目が合う。割れた眼鏡の奥にある瞳が、私に助けを求めていた。いや、私の中に「同類」の匂いを嗅ぎつけて、絶望しているようにも見えた。

​「……すみません。会社、急ぐので」

​ 私は石を握りしめたまま、逃げるようにその場を離れた。

 背後でまた、ドス、という音がした。

 男の「地球は回っているんだ!」という叫びが、笑い声にかき消されていく。

​ 私は走った。

 高熱でふらつく足をもつれさせながら、逃げた。

 掌の中で、佐藤さんから貰った石が、じっとりと汗ばんでいる。


​ ふと、風が変わった。

 甘く、腐ったような、濃密な花の香りが鼻を突き刺す。

 街外れの山からだ。

​ 私は引き寄せられるように歩き出した。

 導かれているのではない。熱に浮かされた脳が、そこに行けばこの狂った「日常」から解放されると、勝手に誤認しているのだ。


​ 舗装された道は、山裾に近づくにつれて、ねっとりとした赤土の山道へと変わった。

 いや、それは土というよりは、巨大な生物の粘膜のようだった。踏みしめるたびに、靴底がジュウ、と微かな音を立てて沈み込み、泥が生き物のように足首に絡みついてくる。

​ 熱で朦朧とする視界の中で、道の両脇に生い茂る植物たちが、奇妙な脈動を繰り返しているのが見えた。葉の一枚一枚が、肉厚な舌のように垂れ下がり、その表面には血管のような紫色の筋が浮き上がっている。

 それらが、空から降り注ぐ何かを吸い上げていることだけは直感的に分かった。

​ 山道には、私と同じように風呂敷を抱えた人々が列をつくっていた。

 彼らは皆、恍惚とした表情を浮かべ、口々に祝詞のようなものを呟いている。

 すれ違った老夫婦の姿に、私は息を呑んだ。

 夫と思しき老人の首筋には、赤ん坊の頭ほどもある巨大な腫瘍がぶら下がっていた。だが、老人はそれを恥じるどころか、まるで愛しい孫でもあやすように、優しく撫でさすっているのだ。

「見てくだされ。お山に近づいたら、こんなに立派な『御印みしるし』を授かりましたわい」

 老人が自慢げに私に話しかけてきた。その目玉は、濁った粘液の膜で覆われていた。

「……ええ、素晴らしいですね」

 私は反射的に、この世界での定型文を返した。

 妻の顔にも、最近小さな「御印」ができ始めていたことを思い出す。彼女はそれを、毎晩鏡の前でうっとりと眺めていた。

​ 山の中腹の開けた場所に、「やしろ」はあった。

 鳥居はない。代わりに、ねじくれた二本の巨木が、互いに絡み合い、融合してアーチを形作っている。その樹皮は焼け爛れた皮膚のようにただれ、絶えず透明な樹液を滴らせていた。

​ 社の中心に、祭壇があった。

 それは岩や木で作られたものではなく、赤黒い肉塊が盛り上がってできた、巨大な臓器のように見えた。

 祭壇は、ドクン、ドクン、とゆっくりと拍動し、周囲に甘ったるい腐臭を撒き散らしている。

 ここが、匂いの源泉だった。

​「さあ、お供えを。神聖なる星の巡りに感謝を」

​ 祭壇の脇に立つ、神主のような格好をした男が言った。彼の顔には、目も鼻も口もなかった。ただ、顔面の中心に、縦に裂けた大きな穴が開いており、そこから言葉を発しているようだった。

 私は列に並び、自分の順番が来るのを待った。

 前の人が、風呂敷から取り出した腐ったリンゴを祭壇に置く。すると、祭壇の肉塊が蠕動ぜんどうし、リンゴをゆっくりと呑み込んでいった。


​ 私の番が来た。

 私は震える手で風呂敷を解き、妻に持たされた泥水の瓶と、腐りかけたバナナを祭壇の前に置いた。

 肉の祭壇が、私の供物を認識し、喜びの震えを見せる。

​「……それも、お供えなさい」

​ 顔のない神主が、私の手を指差した。

 私の右手は、佐藤さんから渡されたあの石を、まだ強く握りしめたままだった。手汗と泥で、石はぬらぬらと光っている。

​「それは、穢れを祓うための石でしょう。役目を終えた石は土に還さねばなりません」

​ 神主の裂け目から、慈愛に満ちた声が響く。

 周囲の参拝者たちも、ニコニコと私を見つめている。さあ、手放しなさい。楽になりなさい、と。

​ 私は石を見つめた。

 ただの、冷たくて硬い、無機質な鉱物の塊。

 だが、この狂った有機的な世界の中で、この石だけが、唯一確かな「現実」の手触りを保っているように思えた。あのスーパーの裏で石を投げられていた男の、絶望的な瞳が脳裏をよぎる。

​ これを手放してしまえば。

 私も、彼らの仲間入りだ。

​ 私の体内の熱が、さらに温度を上げた。脳が沸騰しそうだ。

 祭壇の肉塊が、早く寄越せとばかりにズルリと触手のようなものを伸ばしてきた。

 拒絶しようとした。

 だが、私の意志とは反対に、高熱に冒された筋肉は弛緩しきっていた。

 祭壇から伸びてきた、濡れている触手が私の手首に優しく、しかし強引に絡みつく。それは赤ん坊の指のようでもあり、腸壁のようでもあった。

​ ぽろり、と。

 石が、手から滑り落ちた。


 私は、それを拾おうとしなかった。


​ 石は祭壇の肉の海へと落下し、音もなく沈んでいった。

 直後、祭壇全体が激しく痙攣した。

 ズチュ、グチュ、という卑猥な咀嚼音が響き渡る。無機質なものが、この世界の栄養へと変わっていく音だった。

​「おお……なんと素晴らしい!」

​ 顔のない神主が両手を広げて叫んだ。

 同時に、頭上の彗星がカッとまばゆい紫光を放った。空の傷口がさらに開き、ドロドロとした光の濁流が、私めがけて降り注いだ。

​ 瞬間、私の体内で何かが「決壊」した。

​ 内臓が裏返るような衝撃。

 けれどそれは苦痛ではなかった。これまで感じていた頭痛や吐き気が奔流となって全身を駆け巡り、脳髄をジリジリと焼き尽くしていく。

 それは、究極の「排毒」だった。

 私の中に溜まっていた何かが、汗や鼻水、涙となって、毛穴という毛穴から滲み出ていく。

​「あ、あ、ああ……」

​ 喉から漏れたのは、言葉にならぬ歓喜の呻きだった。

 視界が点滅し、世界の色が変わる。

 灰色だった世界が、極彩色の内臓の色に染め上げられていく。

​「おめでとう。これであなたも、生まれ変わったのですね」

「よかった、よかった」

​ 周囲の人々が私を取り囲み、べたつく手で私の体を撫で回した。彼らの指先から、温かい病原菌が移されていくのが分かる。それが愛おしい。

 私は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、周囲に笑顔を振りまいた。

 頭の芯が痺れて、もう難しいことは何も考えられなかった。

​ ◇

​ 家に戻ったのは、日が暮れてからだった。

 空には二つの月が浮かび、それぞれが膿んだ眼球のように地上を見下ろしている。美しい夜だった。

​「おかえりなさい。……あら?」

​ 玄関で出迎えた妻が、目を見開いた。

 彼女の顔には、朝にはなかった紫色の斑点がいくつも浮き出ていた。以前の私なら悲鳴を上げていただろう。だが今の私には、それが美しい花畑のように見えた。

​「なんて素敵な顔色なの。お山に行って、よかったでしょう?」

​ 妻の声が、鼓膜を優しく震わせる。

 私は深く頷いた。体の芯はずっと燃えるように熱いが、不快感はない。むしろ、細胞のひとつひとつが活性化し、分裂と増殖を繰り返している全能感に満ちていた。

​「ああ、本当だ。……僕は今まで、何を恐れていたんだろう」

​ 私は部屋の机に向かった。

 そこには、朝まで私がすがりついていた「毒物」――解熱剤のシートが置いてあった。

 白く、無機質で、冷徹な化学物質の塊。

 それを見た瞬間、強烈な吐き気がこみ上げた。

​ 私は迷わずシートを掴み取ると、トイレへと向かった。

 便器の中に錠剤をすべて放り込む。

 レバーを回すと、それは渦に飲み込まれて二度と目に入らなくなった。

​ ゴボリ、と水が喉を鳴らす音が、弔いの讃歌のように聞こえた。

​ 寝室に戻ると、妻が布団の中で待っていた。

 私は重い体を引きずり、妻の隣に潜り込む。

 妻の体温もまた、火傷しそうなほどに高かった。二つの高熱が混ざり合い、そして溶け合っていく。

​「ねえ、あなた」

​ 妻が私の胸に顔を埋め、くぐもった声で言った。

 その体からは、あの腐った果実と同じ、甘く熟成された匂いが立ち上っていた。

​「赤ちゃんの名前、もう決めてあるの」

​ 妻のお腹は、まだ平らだった。だが、私の進化した感覚には分かった。

その子宮の中で、彗星の光を浴びた異形の命が、細胞分裂を始めている気配を。

​「なんて名前にするんだい?」

​ 私は妻の髪を撫でながら尋ねた。指の間から、髪がごっそりと抜け落ちたが、気にならなかった。

 代謝が良い証拠だ。

​ 妻は、とろけるような満面の笑みを浮かべて、その名を告げた。

 それは、薬も医者も捨て去った私たちが手に入れた、唯一の真実を象徴する音だった。

​「きゅあ」

​ 私もつられて笑った。

 頬の筋肉が裂けるほどに、口角を吊り上げる。

​「いい名前だ。(笑)」

​ 意識が、羊水のような温かい闇へと沈み込んでいく。

 酷く、喉が渇く。

 けれどもう、水はいらない。

 私たちはこの熱の中で、腐敗しながら永遠に生きていくのだから。

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きゅあ。 しちめんちょう @Turkeyturkeysandwich

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