第9話 美味しいスープ
外の空気を吸って冷静に戻った俺は、今の出来事を振り返り始めた。
起こるはずのない事が起こったような気がする。
絡まれて殴られた。それは想定通りだ。
その後、謝らされたり、袋叩きにあったり、見ぐるみ剥がれたり、外に放り出されたりするなら、それも想定内だ。
しかし現実は、この世界の不運のピタゴラシステムが、俺の想定を上書きしていった。そして最後には俺に金貨をよこしやがった。
俺の不幸方程式が破られるだと? ここは物理法則の異なるパラレルワールドなのか?
いや、そもそもここは異世界だ。魔法とかもあるらしい。物理法則が違っているんだ。俺は、速やかに新たな法則の知識を身につけて、俺に起こる出来事の想定精度を上げないといけない。
これまでしてきたように、起こりうる最悪を想定しておけば、それが起こった時に冷静に対処できるんだ。
「ね? これが『可能性』よ。殴られるところまでは引き寄せちゃったけど、その後の展開が書き換わったの。ダイフのままだったら、あなたは今頃、裏路地で身ぐるみ剥がされてたわよ」
サティアの言葉を半分無視しながら、俺はこの世界の法則に向き合う不安と戦っていた、
「痛っ……」
殴られた左頬が痛みを訴えて来た。アドレナリンが引いて来たらしい。
腫れ上がっているのが手で触れなくてもわかる。
クリーンヒットではなかったが、あの巴投げ男のパンチは鋭かったと言う事だ。まともに喰らわなくて良かった。
ともかく……そう、宿だ。宿を探さなければ。
大通りを物色しながら歩く。宿はある。いくつも。しかしどれも自分には高級すぎるように思えた。
必要最低限のところがいいのだが、相部屋とかは嫌だ。流石に一人でくつろぎたい。シングルベッドの個室がいい。アパホテルとかないのか? どうやって見つけたらいいんだ?
大通りから広場に出たところで、俺は途方に暮れて立ち止まった。
そんな俺に声をかけて来た人がいる。
「お兄ちゃん、宿は決まってる? うちは安いよ! お腹も空いてるでしょ?」
おっ! また不運を呼び寄せたか? これはシミュレーションしてなかったぞ。 俺は警戒しながら声をした方を見た。
十歳くらいだろうか。使いこまれた服を着ているが、清潔感はある。髪はツヤツヤと言うわけではないがちゃんと整っている。
こんな幼い子を使って、客引きをするなんて、犯罪じゃないか? どんなボッタクリ宿だよ。
「あ、お兄ちゃんケガしてる! うちの宿にポーションあるよ。……ただじゃないけど……」
彼女は少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
その顔を見て、俺はこの子に対する疑いが消えた。ボッタクリなら「ただじゃない」なんて言わないはずだ。
俺は彼女の後をついていくことにした。せっかくなら傷も治せる宿の方がいい。
どうせ、屋根に穴が開いているようなボロ宿に連れて行かれるんだろうな……と、最悪のパターンを脳内でシミュレートしながら。
辿り着いたのは、確かに細い路地の奥にある、年季の入った小さな宿だった。
外観は予想通りしょぼい。人がいなくなれば真っ先に崩れそうだ。
だが、一歩足を踏み入れて、俺は息を呑んだ。
「……清潔だ」
床はピカピカに磨かれ、窓ガラスには曇り一つない。
豪華さはないが、そこにはもてなしの心が物理的な清潔さとして結実していた。
「あ、お父さん! お客さん連れてきたよ!」
少女が奥に向かって叫ぶと、人の良さそうな主人が出てきた。
「おや、いらっしゃい。……頬が腫れてるけど殴られでもしたのかい? まずはそこに座りな。ポーションは使うかい。銀貨1枚で譲れるよ」
(銀貨一枚って、どのくらいの価値なんだ?)
俺は頭の中のガイドに訊ねた。
「銀貨10枚で金貨1枚。この宿の値段が、おそらく銀貨3枚か、4枚。庶民の食事は2食で銀貨1枚ってところね。ローポーションが銀貨1枚というのは妥当な値段よ。あと銀貨1枚は銅貨10枚よ」
なるほど、この世界もきっと十進法なんだな。そして銀貨一枚は…二千円くらい?
「ポーションをお願いします」
俺は椅子に座り、女の子が持って来たポーションを口に含んだ。
血の味にハーブティーの味が上書きされた。ハーブティーと言っても、ファミレスで出されるような薄いやつじゃない。……言い方が悪かった。これは青汁だ。しかも苦い方の。香りは良いんだけど。
痛みが感じられなくなったので、俺はその青汁を飲み込んだ。
「傷は治ったみたいだね。今、サービスでスープを出すから、それ飲んで落ち着いてから手続きしよう」
「え、いいんですか……?」
「いいよいいよ、うちのモットーはオモテナシってやつだ」
確かにここには、おもてなしの精神を感じる。どういうことだ。経営者は日本人転生者?
少女がスープを運んできてくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
俺は、ちゃんとしたお礼を言って、運んできたスープを一口、口に含んだ。
「…………!」
美味い。
これはグルタミン酸とイノシン酸が複雑に絡み合ってできた味。塩加減もちょうど良い。そして温かいを少し超えた熱さが喉を刺激する。
前世で食べたどんな料理よりも、あるいは空腹の絶頂に手に入れたあのカエルよりも、そして、認めたくはないが、高校の帰り道に食べた唐揚げよりも、思い出補正を無くせば、このスープの方がはるかに美味く感じる。もちろん空腹のおかげもあるだろう。しかし、このスープは舌を超えて俺の魂に深く染み渡った。
生きててよかった。
そんな、俺の人生には無縁だと思っていた言葉が、喉まで出かかった。
喉の奥がキュッとなって、視界がじわりと滲む。
「……美味しいわね。美味しいものに巡り会えて嬉しいわ。よかったわね。コウくん。名字を捨てた新しい始まりにふさわしい贈り物じゃない。……おめでとう、コウくん……」
サティアが何か言っているが、俺は全神経をこのスープに集中していた。
スプーンですくって、こぼさないように口に運ぶ。
舌だけじゃなく口の中全てで味わう。
飲み込む時も喉で味を感じるように。
胃に収まったら、口の中に残る余韻を楽しむ。
そしてまた、スプーンを器に伸ばす。
「……これからはこういう小さな幸せが、頻繁に訪れるようになるわ。これもコウくんが、ダイフという名字を……」
「うるさいぞ。今は忙しいんだ」
「…そうね。ごめんなさい。
よし。私もコウくんの味覚に同調して、このスープを楽しむことに…
うん、美味しいわね。まるで…」
「いいから黙って味わえよ」
サティアと俺は、静かに、しかしグレートボアと戦った時よりも真剣にスープと向き合う時間を過ごした。
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拙作をお読みいただきありがとうございます。
長い一日の最後においしいスープが飲めた、コウ。
絶対に苦労補正でおいしく感じたんだろうけど、
それを言うのは野暮ってもんです。
次回から異世界の街での生活がはじまります。
知らない街で0から生活を組み立てるのは厳しいよ。
早く自分の能力を使いこなせるようにならないと。
ひきつづきコウを見守ってくださる方は、
ぜひ、『ブックマーク』と『評価』をお願いします。
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