木星道中 ①
木星までの距離が、ダッシュボードに表示されていた。
数字は確実に減っているはずなのに、近づいている感じがしなかった。
一ヶ月という時間を費やし、ようやく目的地に辿り着こうとしていた。
車内では相変わらずレゲエが流れ続けている。
すっかり耳に馴染んだこのリズムは、ボリュームを下げなくとも、もはや気にならなかった。
仕事にも差し支えない。
もう、何か対策をするという発想自体が無意味なのだと、理解していた。
私と四木のあいだに、会話はなかった。
私から話しかけることはなく、四木が語りかけてくることもなかった。
時折、機嫌の良さそうな鼻歌が聞こえるくらいで、お互いがお互いを、いないものとして扱いながら、それぞれに課せられた役割だけを果たしていた。
レゲエは流れていた。
四木は運転していた。
それだけで、十分だと思うことにした。
───星々を、いくつも巡ってきた。
一ヶ月丸々、このタクシーの中にいたのだ。
少しくらいは、価値観が揺らぐものだと思っていた。
だが、回復の星を除いて、心が動いた星はなかった。
私は一貫して、木星へ行くことだけを考えてきた。
不安や恐怖を煽り続ける、この脳みそと心からは、必ずおさらばするつもりだった。
必ずやこの苦しみから解放されるのだ。
手術が終わったあとのことを想像した。
それはきっと、清々しいものだろう。
この輪郭を持った希死念慮は、きれいに消えてくれるはずだ。
何ひとつ、疑っていない。
万事うまくいく未来だけが、はっきりと見えている。
この旅を終えた暁には、
きっと「死にたい」と願わない私が、どこかに、確かに立っている。
幸せに生きてみせるぞ。
そう思い、デブリを見ながら微睡の中へ溶けていった。
──夢を見ていた。
両親とのことを思い出したり、いわゆる感傷に耽っていた。
意識の縁がぼやけ、時間の感覚だけが曖昧になっていた。
「──着きましたよ」
四木の声だった。
その一言で、意識がすっと浮上した。
ブレーキの感触も、減速の衝撃もなかった。
まるで、ずっとここにいたかのような静けさだった。
フロントガラスの向こうに、木星があった。
巨大な縞模様が、ゆっくりと流れている。
小さな頃、図鑑で見たことがあるような景色に息を飲んだ。
茶色とも橙ともつかない帯が幾重にも重なり、それぞれが、確かな速度で動いていた。
圧倒される、というよりも、ただ、見入ってしまった。
こんなにも大きな星が、
こんなにも無言で、ここに在り続けている。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
理由はわからない。
感動、と呼ぶには少し違って、
畏怖とも、安心とも言い切れない。
ただ、涙が流れた。
声を上げることもなく、
嗚咽もなく、
気づけば、頬を伝っていた。
ああ、と思った。
これが、生身の人間でいる感覚なのだろうか。
この脳みそも、この心臓の鼓動も、この、理由のない涙も。
すべてを含めて、私はここまで来た。
ようやく、辿り着くことができたのだ。
穏やかな気分だった。何かをやり遂げた、というより、ようやく、委ねてもいい場所に辿り着いたような感覚だった。
安心感が胸をスーッと下っていった。
「……ありがとう」
小さく、そう呟いた。
それから、
運転席の方を見た。
四木が、いなかった。
ハンドルは静止している。
シートは空で、そこに人が座っていた痕跡すら、残っていない。
レゲエだけが、変わらず流れていた。
音量は、変わることがなかった。
四木の声もよくわかったなと思うほどだった。
止め方がわからなかった。
身を乗り出してデバイスに触れても、反応はない。
どこに触れても、うんともすんとも言わない。
このジープは、「目的地に着くためだけの装置」だと、その時私は初めて気がついた。
運転席には誰もいない。それでもエンジンは動いている。
ブレーキも、ハンドルも、私が触れていいものではなかった。
四木の「着きましたよ」が合図となり、ゴールを告げる、その一言だけが必要だったのだ。
木星は眼前だった。
近すぎて、もう後戻りできないことを、その美しさが教えてくれた。
この先にあるのは選択肢ではない。
予約された処置。
オーダー通りのオペ。
私を待つ手術の機械。
私は、ここまで連れて来られただけだった。
涙はもう出なかった。さっき流したあれが、生身の人間としての最期だったのだと、遅れて理解した。
全く今の私と不釣り合いなレゲエのリズムだけが車内に響いていた。
ジープは着陸への軌道に入り、私はもう、乗客ではなかった。
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