第29話 近づけないまま
背後で、
急に声がした。
橘「小川」
思わず、
肩が跳ねる。
彩乃「……びっくりした」
振り向くと、
橘が立っていた。
近い。
それだけで、
胸の奥が
一瞬だけ
ほどける。
橘「まだ残ってる?」
声は、
いつもと同じ。
仕事の声。
彩乃「うん。
もう少しだけ」
橘「そっか」
そう言って、
橘は
小さく笑った。
口元だけ。
目が、
合わない。
笑っているのに、
どこか
違った。
何かを
隠しているみたいな、
浅い笑顔。
橘「……無理すんなよ」
優しい言い方。
なのに、
力が入っていない。
橘は、
何か言いかけて、
一度
視線を落とした。
それから、
もう一度
こちらを見る。
また、
笑う。
さっきより
少しだけ
ちゃんとした笑顔。
でも、
その奥に
疲れた色が
残っていた。
返事をしようとして、
考えるより先に
口が動いた。
彩乃「……大丈夫?」
言ってから、
はっとする。
聞くつもりなんて
なかったのに。
橘は、
一瞬だけ
動きを止めた。
ほんの、
一拍。
それから、
ふわっと笑う。
橘「大丈夫」
そう言われて、
それ以上は
聞けなかった。
でも。
その笑顔は、
いつもの
安心させる笑い方じゃ
なかった。
――こんな表情、
初めて見た。
橘「……じゃ」
それだけ言って、
橘は
背を向けた。
歩き出すのが、
少し
早い。
振り返らない。
その背中が、
やけに
遠く見えた。
私は、
しばらく
その場に立ったまま、
動けなかった。
何も
言われていない。
何も
起きていない。
それでも、
確かに見た。
笑っているのに、
どこか
壊れそうな顔。
今までの
距離とは
違う。
冷たさでも、
無関心でもない。
もっと、
言葉にしにくいもの。
それだけが、
胸の奥に
静かに残っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます