第30話 言えないまま

午前中の外回りは、

橘と一ノ瀬の

二人だった。


取引先を回って、

書類を受け取って、

短い打ち合わせをいくつか。


流れは、

いつも通り。


橘は、

淡々と

仕事をこなしていた。


受け答えも的確で、

無駄な動きもない。


一見、

何も

変わっていない。


でも、

一ノ瀬は

気づいていた。


移動中、

橘は

ほとんど

雑談をしない。


前なら、

どうでもいい話を

一つくらい

投げてきたはずなのに。


一ノ瀬「次の予定まで、

少し空くな」


橘「そうだな」


それだけ。


歩く速度も、

視線も、

いつもと同じ。


なのに、

空気だけが

軽くならない。


駅前のカフェで、

次の予定まで

時間を潰すことにした。


しばらく、

二人とも

何も話さなかった。


店内には、

カップが触れる音と、

低い話し声。


橘は、

カップを持ったまま、

中身に

ほとんど

手をつけていない。


飲まないまま、

ただ

そこにあるみたいに。


一ノ瀬は、

その様子を

黙って見ていた。


視線を向けるでもなく、

外すでもなく。


いつもの沈黙。


でも、

今日は

少しだけ

重い。


時間は、

ゆっくり

流れているのに、

何かだけが

引っかかっている。


橘は、

窓の外を見たまま、

動かない。


一ノ瀬は、

一度だけ

息を吐いて、

口を開いた。


一ノ瀬「……なあ」


橘は、

視線を向けないまま、

短く返す。


橘「なに」


一ノ瀬は、

少しだけ

間を置いた。


それから、

はっきり言った。


一ノ瀬「何があった?

凛と」


その瞬間。


橘の指が、

ぴたりと

止まる。


橘は、

しばらく

何も言わなかった。


それから、

小さく

息を吐く。


橘「……何もない」


声は、

落ち着いている。


でも、

即答すぎた。


一ノ瀬は、

それ以上

責めない。


一ノ瀬「……俺にも、

言えないか?」


責めるでもなく、

探るでもない声。


橘は、

一瞬だけ

一ノ瀬を見る。


それから、

ゆっくり

視線を外した。


橘「今は、

無理だ」


一ノ瀬「そっか」


それだけ。


一ノ瀬は、

それ以上

踏み込まなかった。


でも、

橘が

何かを

抱えていることだけは、

はっきり

分かっていた。


橘が、

ぽつっと

言う。


橘「……一ノ瀬」


一ノ瀬「ん?」


橘は、

視線を落としたまま

続けた。


橘「小川を……

頼んだ」


一ノ瀬は、

驚かない。


ただ、

ゆっくり

橘を見る。


橘「川原さん……

まだ、

小川を

見てる気がする」


橘「俺が

そばにいられない時、

気にしてやってほしい」


弱りきった声。


一ノ瀬は、

一度だけ

息を吐いて言った。


一ノ瀬「……お前が

守ってやれよ」


さらっとした言い方。


橘は、

苦笑いする。


橘「……できるなら、

そうしてる」


一ノ瀬は、

少しだけ

黙ってから、

軽く言った。


一ノ瀬「凛もさ」


橘が、

顔を上げる。


一ノ瀬「ずっと、

お前を

追ってるだろ」


冗談みたいな

口調。


でも、

視線は

真っ直ぐだった。


一ノ瀬「それでも

行かないのは」


一ノ瀬「……俺のせいか?」


一瞬だけ、

空気が止まる。


橘は、

間を置かずに

答えた。


橘「違う」


短く、

強い声。


橘「それは、

関係ない」


一ノ瀬は、

ふっと

視線を逸らす。


一ノ瀬「……そっか」


それ以上、

何も言わなかった。


一ノ瀬「行くか」


橘「……ああ」


立ち上がるとき、

橘の肩は

少しだけ

重そうだった。


この話は、

終わっていない。


守りたいものも、

絡まった想いも、

まだ

そこにあった。

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隣で見た笑顔に、恋をした イーさん @E-333

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