第26話 そばにいるのに
朝。
フロアに足を踏み入れた瞬間、
何かが足りないと
すぐに分かった。
音でも、
景色でもない。
感覚だけが、
少し違う。
理由は、
分かっている。
橘が、
いない。
たった一週間。
そう分かっているのに、
視界のどこかが
ぽっかり空いている気がした。
仕事は、
相変わらず忙しい。
やることは多くて、
手を止める暇もない。
……はずなのに。
ふとした瞬間、
視線が
無意識に
向こうへ行く。
そこに、
橘はいない。
自分で気づいて、
小さく息を吐く。
「今週だけだっけ」
心の中で
確認するみたいに思う。
昼前。
資料を抱えた
一ノ瀬が
通りかかる。
一ノ瀬「今日、
静かだな」
彩乃「そう?」
一ノ瀬「橘いないと、
こんな感じかって思って」
さらっとした言い方。
でも、
胸の奥に
同じ言葉が
残った。
それから、
何事もないまま
数日が過ぎた。
橘はいないまま、
仕事だけが
淡々と進んでいく。
気づけば、
週の終わりが
近づいていた。
昼休み。
美咲が
椅子を寄せてくる。
美咲「ねえさ」
彩乃「急だね」
一ノ瀬「それ、
俺も含まれてる?」
美咲は
少しだけ
楽しそうに笑う。
美咲「今日は金曜日だし」
一ノ瀬「ラスト?」
美咲「そう。
今週お疲れさま会」
彩乃「……行く流れ?」
美咲「行く流れ」
一ノ瀬「異議なし」
決まるのは、
いつも早い。
ここ数週間、
ずっとそんな感じだった。
まだ一緒に働き始めて
そんなに経っていないのに、
変に気を遣わなくていい。
それが、
少し不思議で、
少し心地よかった。
仕事終わり。
三人で
駅近くの店に入る。
週末前で、
店内は
少しだけ賑やかだ。
席に着くと、
自然に
一つ余る。
橘の分。
美咲が
それを見て言う。
美咲「……やっぱ変だね」
一ノ瀬「だな」
グラスを持って、
軽く乾杯する。
「お疲れさま」
最初は
仕事の話。
次は
どうでもいい話。
一ノ瀬は
今日は
よく喋る。
一ノ瀬「橘いないと、
俺が前に出る感じになるの
納得いかないんだけど」
美咲「いつも前に出てるでしょ」
一ノ瀬「それは否定できない」
思わず、
笑ってしまう。
楽しい。
ちゃんと、
楽しい。
この数週間で、
四人で働く空気が
自然にできていた。
居心地がいい。
だからこそ、
ふと
思ってしまう。
この時間は、
ずっとじゃない。
プロジェクトが終われば、
橘と一ノ瀬は
元の部署に戻る。
それは、
最初から
決まっていること。
一ノ瀬が
グラスを置いて言う。
一ノ瀬「小川さ」
彩乃「なに?」
一ノ瀬「橘いないと、
調子狂う?」
一瞬、
心臓が
跳ねる。
彩乃「……少しは」
正直な答え。
一ノ瀬は
少しだけ笑う。
一ノ瀬「だよな」
それ以上、
何も言わない。
美咲が
軽く続ける。
美咲「でも、
戻ってくるよ。
今週だけ」
彩乃「うん」
そう答えながら、
心の中で
別のことを思う。
“今週だけ”が
終わったら。
また、
次の期限が
来る。
店を出ると、
夜風が
少し冷たかった。
週末前の金曜日。
人の流れは、
どこか軽い。
駅まで、
三人で歩く。
今日のこの時間も、
悪くない。
でも。
改札で別れたあと、
一人で電車に乗ると、
少しだけ
静かになる。
スマホを取り出す。
通知は、
ない。
分かってる。
一週間だけ。
それでも、
画面を閉じる前に
もう一度だけ
橘の名前を見る。
居心地がいい時間ほど、
終わりが
近いことを
意識してしまう。
私は、
それを
見ないふりは
できなかった。
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