第25話 ふわっとした笑顔
第25話
朝から、
フロアは
いつも通りだった。
仕事は忙しくて、
時間は
あっという間に過ぎる。
昨日の飲み会のことを
引きずるほど、
子どもじゃない。
そう思って、
パソコンに向かう。
……のに。
ふとした瞬間に、
思い出してしまう。
笑っていた顔。
声のトーン。
目が合ったときの、
あの感じ。
作業の手を止めて、
深く息を吐く。
昨日は、
楽しかった。
それだけ。
それ以上でも、
それ以下でもない。
そう言い聞かせながら
資料をまとめていると、
背後から声がした。
橘「それ、
今日中?」
振り向くと、
橘が立っていた。
彩乃「うん。
もう少しで」
橘「そっか。
無理すんなよ」
それだけ言って、
橘は
自分の席に戻っていく。
それだけの会話。
なのに、
胸の奥が
少しだけ
あたたかい。
……あ。
その瞬間、
思った。
私、
この人のこと、
好きなんだ。
突然でも、
衝撃でもない。
ただ、
自然に
腑に落ちた。
会えたら嬉しくて、
一緒にいると楽しくて、
いないと
少しだけ物足りない。
それを、
好きって言うんだ。
そう思ったら、
変に落ち着いた。
昼休み。
美咲と並んで
お弁当を食べる。
美咲「なんか、
今日静かじゃない?」
彩乃「そう?」
美咲「うん。
珍しく考え事してる顔」
彩乃は
小さく笑った。
彩乃「ちょっとだけね」
美咲「ふーん」
それ以上、
美咲は聞いてこない。
その距離が、
ありがたかった。
午後。
資料を確認していると、
後ろから
気配がした。
橘「そうだ」
何でもない調子。
橘「来週さ、
一週間だけ
元の部署に戻ることになってて」
その言葉を聞いて、
一瞬、
頭が止まった。
一週間。
意味は分かるのに、
すぐに
言葉が出てこない。
彩乃「……え?」
聞き返した声が、
思ったより
間の抜けた音になる。
橘「一週間だけね」
軽い言い方。
それなのに、
胸の奥が
すっと冷える。
彩乃「……そっか」
それだけ言って、
続きを探す。
でも、
言葉が
うまく出てこない。
彩乃「急、なんだね」
橘「まあ、
急っちゃ急かな」
彩乃「……」
橘は、
私の反応を
ちらっと見て、
少しだけ笑う。
橘「そんな寂しそうな顔されると、
ちょっと嬉しいんだけど」
冗談みたいな口調。
軽くて、
柔らかい声。
からかうというより、
空気を和らげるみたいに。
彩乃「……別に、
寂しくないわけじゃないけど」
言ってから、
自分で
少し驚く。
橘「素直だな」
彩乃「今だけ」
小さく付け足す。
橘は、
ふわっとした笑顔で言った。
橘「すぐ戻るから」
橘「このプロジェクト終わるまでは
応援続くし」
その笑顔を見て、
胸の奥が
きゅっと
締まる。
やっぱり。
私は、
この笑顔が
好きなんだ。
彩乃「……分かってる」
分かってる。
それでも、
気持ちは
別のところにある。
彩乃「一週間、
いないんだなって思っただけ」
橘は、
それ以上
何も言わなかった。
でも、
その沈黙が
否定じゃないのは
分かった。
少しだけ、
間が空く。
橘が、
思い出したみたいに言う。
橘「そういえばさ」
彩乃「なに?」
橘「俺たち、
連絡先まだだったよね」
一瞬、
心臓が
跳ねた。
彩乃「……そう、だね」
橘「今さらだけど」
そう言って、
ポケットから
スマホを出す。
本当に、
今思いついただけみたいな顔。
橘「交換しとこ。
いない間、
何かあったら困るし」
理由は、
あくまで軽い。
彩乃「……うん」
断る理由なんて、
最初からなかった。
スマホを取り出す手が、
ほんの少しだけ
遅れる。
画面を見せ合って、
操作する。
名前を入力している間、
不思議なくらい
静かだった。
橘「……これでいい?」
彩乃「うん」
登録完了の音。
それだけなのに、
胸の奥が
じんわり
あたたかい。
橘は、
そのまま
スマホをポケットに戻す。
何事もなかったみたいに、
軽く会釈して、
自分の席に戻っていった。
画面に残った、
橘の名前。
たったそれだけのことなのに。
一週間が、
さっきより
少しだけ
近くなった気がした。
その感覚が、
怖くて。
でも、
嫌じゃなかった。
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