第23話 無理のない場所

最近、

フロアは

落ち着いていた。


忙しいことには

変わりないけれど、

どこか

張り詰めた感じがない。


川原も、

静かだった。


必要なことだけを話して、

深く踏み込んでこない。


それが、

普通だった。


美咲「ねえ、彩乃」


昼前、

美咲が

小さく声をかけてくる。


美咲「今日さ、

仕事終わったら

彼氏とごはん行くんだ」


彩乃「いいじゃん」


美咲「でしょ。

やっと予定合ったの」


嬉しそうに笑う。


美咲「忘年会も

出張で来れなかったしさ。

今日は埋め合わせ」


その言い方が

自然で、

ちゃんとしていて。


私は

少しだけ

安心した。


美咲の生活が、

ちゃんと前に進んでいる。


それが、

今の自分にとっても

心地よかった。


午後。


仕事の合間に、

コピーを取りに行く。


戻る途中で、

見覚えのある背中が

目に入った。


橘だった。


彩乃「お疲れ」


声をかけると、

すぐに振り向いて

笑う。


橘「お疲れ。

今日、結構立て込んでるよね」


彩乃「うん。

でも、なんとかなってる」


橘「それならよかった」


コピー機の前で、

紙を揃えながら、

橘が続ける。


橘「今回のプロジェクトさ」


何でもない調子。


橘「応援で来てるだけなんだよね」


彩乃「うん。

そうみたいだね」


橘「これ終わったら、

元の部署に戻る予定」


彩乃「……そっか」


一瞬だけ間が空いて、

すぐに言い直す。


彩乃「じゃあ、

今は期間限定だ」


冗談っぽく言うと、

橘が少し笑った。


橘「そう。

期間限定」


彩乃「レアだね」


橘「まあね」


軽い返事。


でも、

一拍置いてから、


橘「長くは、いない」


そう付け足す。


声は変わらない。

でも、

さっきより

少しだけ低い。


彩乃「そっか」


うなずいてから、

前を向いて言う。


彩乃「じゃあ、

今を大事にしないと」


橘は、

一瞬だけこちらを見て、

小さく息を吐く。


橘「……だな」


それ以上は、

何も言わなかった。


でも、

その一言で、

十分だった。


席に戻ると、

美咲が

こちらを見る。


美咲「橘くん?」


彩乃「うん」


美咲「今日いる日だっけ?」


彩乃「応援、しばらく続くらしい」


美咲「そっか。

なんか安心するね」


その言葉に、

うなずいてしまった。


否定する理由が

なかった。


仕事をして、

画面を見て、

キーボードを打つ。


集中できている。


余計なことを

考えなくていい。


たまに、

フロアの向こうに

橘の姿が見える。


それだけで、

不思議と

落ち着いた。


夕方。


美咲が

バッグを持って立ち上がる。


美咲「じゃ、

先に上がるね」


彩乃「楽しんできて」


美咲「ありがと」


軽く手を振って、

美咲は出ていった。


一人になる。


でも、

不安はなかった。


今日のフロアは、

静かで。


橘もいて。


ちゃんと、

大丈夫な日だった。


帰り際、

廊下ですれ違った橘が

軽く言う。


橘「お疲れ」


彩乃「お疲れさま」


それだけ。


それだけなのに、

胸の奥が

少し

あたたかい。


何も起きなかった。


でも、

こういう日が

続けばいいと、

思ってしまった。


それくらいには、

今の日常が

気に入っていた。

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