第20話 安心が戻る

席に戻ると、

さっきまでの空気が

少しだけ嘘みたいに感じた。


忘年会は、

まだ続いている。


橘が、

少しだけ横にずれて言った。


橘「ここ、空いてるよ」


その前には、

一ノ瀬と美咲が座った。


私は、

一瞬だけ

美咲を見る。


美咲は、

何も言わずに

うなずく。


それで、

足が動いた。


一ノ瀬。

美咲。

私。

橘。


自然に、

その並びになった。


ぎゅっと詰めるわけでもなく、

離れすぎるわけでもない距離。


橘は、

前を向いたまま

いつもの調子で話し始める。


橘「忘年会ってさ、

後半になると

席の概念なくなるよね」


どうでもいい話。


でも、

その軽さが

ありがたかった。


少しして、

横から声をかけられた。


知らない女の人が、

二人。


女性「同じ会社ですよね?」

女性「どこの部署ですか?」


橘は、

一瞬だけ驚いた顔をしてから、

笑って答える。


橘「営業です」


それ以上は、

言わない。


女性「よかったら、

一緒に飲みません?」


はっきりした誘い。


橘は、

立ち上がらずに言った。


橘「ごめん。

今はここで」


理由も、

言い訳もない。


女の人たちは、

顔を見合わせて、

笑って離れていった。


少しして、

今度は

別の女の人が一人。


同じ質問。

同じ距離。


橘は、

さっきと

同じ答えを返す。


席は、

動かなかった。


私は、

間を置いて言った。


彩乃「……よく声かけられるの?」


橘が、

少し困ったように笑う。


橘「今日が

たまたまじゃない?」


彩乃「多いね?」


そう言うと、

橘は

小さく息を吐いた。


橘「まあね」


それだけ。


一ノ瀬が、

グラスを置いて言った。


一ノ瀬「どこ行っても

お前は目立つよな〜」


美咲が、

すぐに続ける。


美咲「モテる人は

大変だね〜」


橘は、

困った顔をしながらも

笑った。


橘「だから、

今日はたまたま」


その言い訳が

あまりに弱くて、


四人で、

思わず笑った。


大きな声じゃない。


でも、

ちゃんとした笑い。


私は、

久しぶりに

力を抜いて笑っていた。


その時、

視線を感じて

ふと顔を上げる。


少し離れた席に、

川原がいた。


目が合いそうになって、

すぐに逸らす。


何事もなかった顔。


橘は、

一度だけ

そちらを見てから、

何も言わずに

グラスを持ち替えた。


一ノ瀬と、

一瞬だけ

目が合う。


でも、

誰も動かない。


忘年会は、

終わりに近づいていた。


人が、

少しずつ

席を立ち始める。


コートを取る人。

レジに向かう人。


私は、

バッグを肩にかけながら、

息を整えた。


この夜は、

まだ

何も起きていない。


橘は、

立ち上がりかけて、

また座った。


その時は、

まだ、

来ていなかった。

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