第11話 同じ
朝、
席に着いた瞬間、昨日の出来事が現実だったのか分からなくなった。
川原は、
もうそこにいた。
挨拶の声も、
歩き方も、
何一つ変わっていない。
変わっていないことが、
胸の奥に引っかかる。
川原「おはよう、小川さん」
彩乃「……おはようございます」
声が、
少しだけ遅れた。
それだけで、
喉の奥が乾く。
川原は、
何も考えていない顔で、
いつもの距離に立つ。
近すぎず、
でも遠くもない。
逃げる理由を、
作れない距離。
仕事の話が始まる。
資料。
数字。
期限。
どれも正しくて、
どれも今じゃなくていい話。
川原「ここなんだけど」
画面を指す。
距離が、
少し詰まる。
空気が、
一段重くなる。
彩乃は、
椅子を引こうとして、
途中でやめた。
動いた瞬間に、
全部伝わってしまいそうで。
心臓が、
耳の裏で鳴る。
川原は、
その音に気づかない。
視線が合うと、
少しだけ困ったように笑った。
距離を取ろうとすると、
何事もなかったみたいに
同じ位置に戻ってくる。
それを、
自然な流れとして。
彩乃は、
そこで分かった。
この人は、
昨日の言葉を
拒否として受け取っていない。
受け取る必要がないと、
思っている。
午前中、
何度も名前を呼ばれた。
そのたびに、
肩が小さく跳ねる。
川原は、
気づかない。
むしろ、
声が少し柔らかい。
それが、
逃げ場を消していく。
昼休み、
美咲が隣に来た。
美咲「彩乃、今日大丈夫?」
彩乃「うん…」
返事は早かった。
でも、
口の中が
苦いままだった。
美咲は、
それ以上何も言わず、
ただ隣に座った。
午後、
書類を運ぶ途中、
指先に力が入らなくなった。
一枚、
床に落ちる。
乾いた音。
川原「大丈夫?」
すぐ横。
近い。
彩乃「……はい」
拾おうとして、
手が止まる。
息を吸おうとして、
うまく入らない。
川原は、
その様子を
違う意味で見ていた。
川原「戸惑ってるだけだよね」
声は、
とても穏やかだった。
距離は、
変わらない。
川原「そういうとこ、
可愛いと思うけど」
可愛い。
その言葉だけが、
遅れて
耳に残った。
喉が、
ひくっと鳴る。
否定の言葉が浮かぶ前に、
身体から力が抜けた。
この人は、
もう
聞く気がない。
川原は、
納得したみたいに
小さく笑った。
川原「そんなに意識しなくていいよ。
俺も同じだから」
視界が、
少し狭くなる。
立っているのに、
足元が
遠い。
彩乃は、
何も言えなかった。
言葉を出す前に、
ここで何を言っても
意味がないと
分かってしまったから。
席に戻る。
画面を見る。
文字が、
滲んでいる。
瞬きをしても、
戻らない。
ここにいたら、
本当に壊れる。
その考えだけが、
はっきりしていた。
美咲が、
気づいた。
何も言わず、
椅子を寄せる。
美咲「……彩乃、今の、大丈夫じゃないよね」
彩乃は、
何も言えなかった。
美咲「無理に話さなくていい。
でも、一人で抱えることじゃないから」
その言葉が、
胸の奥に
静かに落ちた。
川原は、
変わらず仕事をしている。
何も起きていない顔で。
それが、
一番
現実だった。
断ったはずなのに。
終わったはずなのに。
同じだと、
思われたまま。
それが、
皮膚の内側に
残り続けていた。
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