第10話 逃げ場がない

朝、

エレベーターを降りた瞬間、胸がひゅっと縮んだ。


フロアに入る。


川原がいた。


それだけで、

無意識に視線を探してしまう自分がいる。


一瞬、

目が合う。


すぐに逸らされる。


何事もなかった顔。


それでも、

身体だけが正直に反応してしまう。


席に着く。


画面を見る。


仕事は、

いつも通りできてしまう。


だからこそ、

怖さが誤魔化せない。


午前中、

何度か視線を感じた。


振り返ると、

必ず川原がいる。


回数を数えてしまっていることに気づいて、

喉が乾く。


川原「小川さん」


声がして、

肩が小さく跳ねた。


距離が、

近い。


説明は仕事の話。


でも、

話が終わっても離れない。


川原「……疲れてる?」


彩乃「……いえ」


即答だった。


川原「顔に出やすいよ」


知らなかった。

そこまで見られていたこと。


昼休み、

トイレに逃げ込む。


鏡を見る。


いつもと変わらない顔なのに、

安心できない。


午後、

席に戻ろうとした時、背後に気配を感じた。


振り返る。


川原が、

そこに立っていた。


いつから?


川原「少しだけ」


彩乃「……今、立て込んでいて」


初めて、

はっきり理由をつけた。


川原「そっか」


でも、

その場を動かない。


待っている。


心臓の音が、

うるさくなる。


川原「じゃ、後で」


——後で。


嫌な予感が、

胸の奥に残る。


帰り際、

人の多い時間を選んで席を立った。


エレベーター。


扉が閉まりかける。


後ろから足音。


手が伸びて、

扉が止まる。


川原だった。


隣に立つ。


距離が、

近い。


逃げ場が、

ない。


扉が開く。


彩乃は、

すぐに外へ出た。


歩く。


早足。


後ろから、

足音。


同じ速さ。


振り返る。


川原だった。


目が合う。


逸らされない。


川原「……やっぱり」


納得した声。


川原「ちょうど一緒だったね」


確認じゃない。


最初から決まっていたみたいな言い方。


川原「俺のこと、嫌いじゃないでしょ」


問いかけなのに、

答えを待っていない。


川原「分かるんだよ」


彩乃は、

立ち止まった。


逃げるより先に、

言わなきゃいけないと分かったから。


彩乃「……違います」


彩乃「私は、そういう気持ちはありません」


川原の表情が、

一瞬だけ崩れる。


川原「……え?」


本気で想定していなかった声。


彩乃「困ります」


川原「今までの感じ、そうじゃなかった?」


引かない。


彩乃「やめてください」


川原「……勘違い?」


彩乃「そうです」


即答。


彩乃「仕事の関係以上のことは、望んでいません」


沈黙。


川原「……そっか」


それでも、

すぐには離れない。


川原「急に距離取られるとさ」


川原「それはそれで、困るんだけど」


完全に、線を越えた。


彩乃「私は困っています」


背を向けて歩き出す。


今度は、

追ってこなかった。


それでも、

背中に視線が残る。


断った。


はっきり。


それなのに、

終わった気がしなかった。


その感覚が、

一番怖かった。

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