第7話 愛人、逃走



翌朝、目が覚めると、アパートは不気味なほど静まり返っていた。


昨夜の罵声と、物が壊れる音が嘘のようだ。


私は制服に着替え、リビングへと向かった。


「……おはよう」


声をかけるが、返事はない。


父はダイニングテーブルの椅子に座り、亡霊のように一点を見つめていた。


その目の前には、白い封筒が一通。

そして、部屋の至る所が不自然に「空」になっていた。


ミナの化粧品がない。

玄関にあった彼女の靴がない。


彼女が固執していたブランド物のバッグも、クローゼットの服も、すべて消え失せている。


ついでに言えば、リビングにあった少し高価なドライヤーや美顔器といった家電類もなくなっていた。


「……行っちゃったんだ」


私の呟きに、父はビクリと肩を震わせた。


「……ちょっと、実家に帰るだけだそうだ」


父は掠れた声で言った。

まだ現実を認めたくないらしい。


「頭を冷やしたら戻ってくるさ。妊娠してるんだぞ? 俺がいないとやっていけるわけがない」


「お父さん」


私はテーブルの上の封筒を指さした。


「それ、なんて書いてあるの?」


父の手が震える。

彼は封筒を隠そうとしたが、諦めて力なく手を開いた。


中から出てきたのは、便箋ですらない。

広告の裏紙に殴り書きされた文字だった。


『貧乏人は無理。堕ろすから金送って。慰謝料請求したら訴える』


あまりにも簡潔で、清々しいほどの三行半だ。


「愛」だの「運命」だのと語っていた二人の結末にしては、あまりにも即物的すぎる。


「……嘘だ……そんなはずない……」


父が涙をこぼした。

五十手前の男が、子供のように鼻水を垂らして泣いている。


「俺は……俺はあいつのために全部捨てたんだぞ? 優子も、家も、世間体も……全部投げ打って、あいつを選んだのに……なんでだよ! なんでこんなことになるんだよ!」


テーブルを拳で叩く。

ドン、ドン、と虚しい音が響く。


「金か? 結局、金だったのかよ……! 俺の中身なんて、誰も見てくれないのか……!」


父の怒鳴りを聞きながら、私は冷蔵庫から牛乳を取り出した。


中身を見てくれない?

違う。お父さん。


あなたは「中身」を見られたから捨てられたんだよ。


金というメッキが剥がれたら、中には無責任さと甲斐性のなさしか詰まっていなかった。

ミナはそれに気づいて逃げた。それだけの話だ。


「凛……」


父が縋るような目で私を見た。


「お前だけは、俺を見捨てないよな? 俺たち、家族だもんな?」


ズズッと鼻をすする音。

この期に及んで、まだ誰かに寄生しようとしている。


孤独に耐えられないから、私を代わりの杖にしようとしているのだ。


「さあ。私、学校あるから」


「え……?」


「とりあえず、今日ゴミの日だから、そのミナさんの残したゴミ(手紙)、捨てといてね」


それだけ言い残し、私は鞄を持って玄関へ向かった。


背後で「待ってくれ、凛! 一人にしないでくれ!」と叫ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。


アパートのドアを閉めると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。

スマホを取り出し、一件のメールを送信する。


---


宛先:母さん

件名:作戦終了


本文:

ターゲット、落ちました。

ミナは逃走。父さんは精神崩壊中。

予定通り、次のフェーズに移ります。


---


送信ボタンを押すと同時に、ふうっと息を吐き出した。


長かった二ヶ月が終わる。

あとは、この茶番劇に幕を引くだけだ。


足取りは驚くほど軽かった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る