第6話 破綻の前夜



その夜、リビングの空気は限界まで張り詰めていた。


テーブルの上には、督促状とクレジットカードの明細が散乱している。


「……ねえ、もう限界よ。カード止まるんじゃない?」


ミナが死んだ魚のような目で呟く。

父は頭を抱え、貧乏ゆすりを繰り返していた。


「だ、大丈夫だ。あと少し……あと少しで、離婚の財産分与が決まる。そうすれば、まとまった金が入るはずだ」


父は呪文のように繰り返した。


それが、彼らに残された唯一の希望だった。

前の家を売るなり、評価額の半分を貰うなりすれば、数千万円とはいかなくとも、それなりの金額が手に入ると信じているのだ。


借金を返し、当面の生活を立て直せるだけの金を。


私は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぎながら口を開いた。


「お父さん。まだそんなこと言ってるの?」


私の声は、静かな部屋によく響いた。


「なんだと? 当然の権利だろ。俺はあの家で二十年暮らしたんだ。家の評価額の半分は俺のものだ」


「あのね、お父さん。法律のこと、ちゃんと調べた?」


私はコップを置き、スマホで検索画面を出して見せた。


「財産分与の対象になるのは、『婚姻期間中に夫婦が協力して築いた財産』だけ。特有財産は含まれないの」


「とくゆう……?」


父がマヌケな声を出す。


「お母さんの実家、土地も建物もお祖父ちゃんからの相続財産でしょ? それは『特有財産』だから、お父さんには一円の権利もないの」


「…………え?」


「リフォーム代を出したって主張しても、建物の価値は年数で減価償却されてるから、今の価値なんてほぼゼロ。むしろ解体費用のほうが高くつくくらいよ」


父の動きがピタリと止まった。

口をパクパクさせているが、言葉が出てこない。


「つまり、お父さんがもらえるのは、二人の預貯金の半分だけ」


私は計算するふりをして、天井を仰いだ。


「でも、お父さんの退職金の前借りとか、これまでの浪費分を相殺したら……むしろ、お母さんに払う慰謝料の方が高いから、お父さんはマイナスからのスタートだね」


ドサッ。


何かが落ちる音がした。

ミナが、持っているスマホを取り落としたのだ。


「……は?」


ミナの顔から表情が消えていた。


「え、嘘でしょ? だっておじさん言ったじゃん。家は俺のものだ、売れば金になるって。だから私、今の貧乏生活も我慢してたのに」


「お、俺だってそう思って……! だ、だけど、俺の給料で維持してきたんだぞ!?」


父が往生際悪く叫ぶ。

私は冷たく言い放った。


「維持費と所有権は別だよ。そんな常識も知らずに離婚届出したの?」


「ふ、ふざけんじゃないわよッ!!」


突然、ミナが絶叫した。


テーブルの上の明細書を手当たり次第に父に投げつける。


「騙したのね!? 資産家だとか、余裕があるとか言って! ただの借金まみれのオッサンじゃない!」


「ミ、ミナちゃん! 落ち着いて! お腹の子供が!」


「こんな状況で産めるわけないでしょ! どうすんのよこれ! 私の人生どうしてくれんのよ!!」


ミナの怒号と、父の情けない言い訳が交錯する。


修羅場だ。


愛し合っていたはずの二人が、今は互いを罵り合い、責任を押し付け合っている。


私はその光景を、特等席で眺めていた。


母さんが泣いていた時、父さんはこう言った。

「愛する人と生きたい」と。


その「愛」の正体がこれだ。

金の切れ目が縁の切れ目。

薄っぺらいメッキが剥がれ落ちただけの話。


「……もう、無理」


ミナが過呼吸気味に肩を上下させ、ふらりと立ち上がった。

その目には、父への愛など欠片も残っていなかった。


あるのは軽蔑と、一刻も早くここから逃げ出したいという焦燥だけ。


「お父さん、どうするの?」


私が尋ねると、父は床に散らばった紙くずの中で、頭を抱えてうずくまった。


「わからん……俺は、どうすれば……」


答えは簡単だ。

地獄に落ちればいい。


私は麦茶を一気に飲み干すと、「私、明日早いから」と言い残して自室に戻った。


カーテンを閉めた瞬間、背後で再びミナの悲鳴のような罵声が上がった。


明日の朝、この家に彼女がいる確率は限りなく低いだろう。


長い夜になりそうだ。


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