第3話 同居開始。愛人の違和感
父が「愛の巣」と呼んだ新居は、築三十年の2DKアパートだった。
以前の家(母の持ち家)の、リビングと私の部屋を足したくらいの広さしかない。
「……ここが、新しいお家?」
私が荷物を抱えて玄関に入ると、奥から甘ったるい香水の匂いが漂ってきた。
現れたのは、お腹が少しふっくらとした茶髪の女性。
ミナだ。
部屋着のスウェット姿だが、爪は派手なジェルネイルで飾られている。
「あ、凛ちゃん? 初めましてぇ。ミナです。お父さんから聞いてるよー」
彼女は私を頭の先からつま先まで値踏みするように見た後、作った笑顔を浮かべた。
目は笑っていない。
「なんでこのガキがついてくんのよ」という本音がダダ漏れだ。
「初めまして。急に押しかけてすみません。凛です」
「いーのいーの。あたしもお腹大きいしぃ、家事とか手伝ってくれるなら助かるし」
彼女はチラリと父を見る。
父は「ほら見ろ、うまくやっていけるだろ?」とでも言いたげに鼻を鳴らした。
能天気なものだ。
この狭い空間で、元妻の娘と、略奪愛の相手がうまくいくわけがない。
リビング(兼ダイニング)に通される。
壁が薄いのか、隣の部屋のテレビの音が聞こえてくる。
「とりあえず、これからの生活費の話をしておこうか」
父が少し恰好をつけて、封筒をテーブルに置いた。
今月の生活費らしい。
ミナがそれを手に取り、中身を確認する。
とたん、彼女の眉間のしわが深くなった。
「……え、ケンちゃん。これだけ?」
「え?」
「これだけって、家賃払ったら手元に残るの、五万くらいじゃない? これで三人分の食費と光熱費払うの? あたし、妊婦検診もあるんだけど」
ミナの声が少し尖る。
父は慌てて取り繕った。
「い、いや、今月は引っ越しで色々物入りだったからな。来月からはもう少し余裕が出るはずだし……」
「でも、前の奥さんと住んでた家はもっと広くて豪華だったじゃん。なんでこんなボロアパートなの? もっといいとこ借りれなかったの?」
ここだ。
私が口を挟むタイミングは。
私は段ボールから麦茶のペットボトルを取り出しながら、何気ない調子で言った。
「あ、それは仕方ないですよ、ミナさん」
「……は? どういうこと?」
「だってお父さんの手取り、ご存知ですよね?」
ミナが怪訝な顔をする。
私はスマホの電卓アプリを起動し、画面を彼女に見せながら説明を始めた。
「お父さんは課長職ですけど、手取りはこれくらい。そこから、このアパートの家賃が引かれますよね。あと、車のローン。それと……今回の離婚で発生した、お母さんへの慰謝料の分割払い分」
父が「おい、凛!」と止めようとするが、私は止まらない。
「以前の家は、お母さんの実家の土地でお母さんの名義だったから、家賃がかからなかったんです。だからお父さんのこのお給料でも、あんなに贅沢な暮らしができてたんですよ」
ミナの顔から、サーッと血の気が引いていくのが見えた。
「え……あの家、ケンちゃんのものじゃなかったの?」
「違いますよ。だから今回、財産分与で家をもらうなんて不可能ですし、むしろお父さんは裸一貫で放り出された形です。ね、お父さん?」
父は顔を真っ赤にして黙り込んだ。
否定したいが、嘘をつけば後でバレる。
ミナは信じられないものを見る目で父を凝視した。
「嘘……じゃあ、ケンちゃん資産家じゃないの? ただの……」
「ただの、お給料が平均よりちょっといいだけのサラリーマンですよ。でも、これから赤ちゃんも生まれるし、私が大学行くための費用もかかるし……あ、私は奨学金借りる予定ですけど、それでもカツカツですよね」
私は「大変ですねぇ」と他人事のように締めくくった。
ミナの手が震えている。
彼女が夢見ていたのは、広い一軒家での優雅な専業主婦ライフだったはずだ。
しかし現実は、壁の薄いアパートで、金のない中年男と、生意気な連れ子との共同生活。
「……話が違う」
「ミナちゃん? だ、大丈夫だよ! 俺がもっと頑張って残業すれば……」
「妊婦に節約生活しろって言うの!? これからオムツ代だってかかるのに!」
初日から、愛の巣に怒号が響き渡る。
私はその喧噪をBGMに、自分の荷解きを始めた。
父の幻想が崩れるのは思ったより早そうだ。
でも、こんなのはまだ序の口。
これから始まるのは、家事能力ゼロの父と、金のないストレスに晒される妊婦による、地獄の消耗戦なのだから。
「……ふふ」
口元が緩むのを、私は段ボールの陰で隠した。
お母さん、作戦通りだよ。
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