第2話 母の沈黙と娘の提案



「……ほ、本当に来るのか? ついてくるって、俺たちの新居に?」


父の反応は、予想通り渋いものだった。


歓迎するわけでもなく、かといって娘の申し出を無下に断るほどの非情さ(あるいは決断力)も持ち合わせていない。


「うん直。だって、お父さんのこと心配だもの。それに、ミナさん? だっけ。若いお母さんができるなんて、ちょっと楽しみかも」


心にもないセリフを吐くたび、口の中が砂を噛んだようにジャリつく。


だが、父はその言葉にまんざらでもない表情を浮かべた。


「そうか、そうか。凛なら分かってくれると思っていたよ。ミナも、歳の近い話し相手ができれば喜ぶだろう」


絶対に喜ばない。


二十四歳の愛人が、五十前の男との生活に夢を見ているところに、十八歳の娘――しかも自分より偏差値の高そうな――が入り込んでくるのだ。


地獄でしかないだろう。


「じゃあ俺、ちょっとミナに電話してくる。引っ越しの段取りもあるからな」


父は浮足立ってリビングを出て行った。

おそらく、愛人に「娘が理解を示してくれた! 俺の人徳だ!」とでも報告するつもりだろう。


その裏で、愛人の悲鳴が聞こえるようだ。


リビングには、私と母の二人が残された。


重苦しい静寂。

母は俯いたまま、小刻みに震えている。


「……どうして」


絞り出すような声だった。


「どうしてなの、凛。あの人が何をしたか、わかってるでしょ? 裏切られたのよ。それなのに、あっちに行くなんて……お母さん、独りぼっちになっちゃうじゃない」


母の涙がテーブルに落ちる。


私は席を立ち、母の隣に座って、その背中をそっと抱きしめた。

今まで私を育ててくれた、小さくて温かい背中。


「お母さん、聞いて」


耳元で、父には聞こえないボリュームで囁く。


「本気で父さんと暮らしたいわけないでしょ」


「え……?」


「あの人が言ってたこと、覚えてる? 『家は俺がもらう』って。父さん、この家の名義がお母さんだってこと、完全に忘れてるよ」


母は涙目のまま、きょとんとした。


「そ、そういえば……お父さん、固定資産税の通知書も見たことないものね。全部、私の口座から引き落としだから」


「でしょ? でも、今ここでそれを指摘したらどうなると思う? 父さんのことだから『俺が払ったリフォーム代を返せ』だの『売って現金化して分けろ』だの、騒ぎ立てて泥沼になるよ」


父は金に汚い。

いや、正確には「自分はもっと金を持っているはずだ」という幻想にしがみついている。


これから生まれてくる子供と愛人のために、なりふり構わず母の財産(この家)を狙ってくる可能性が高い。


「私が向こうに行けば、父さんの生活費は激増する。養育費として母さんに請求がいかないように、私が父さんの財布を内側から管理する」


そして、私は声をさらに潜めた。


「それにね、父さんの貯金、たぶんお母さんが思ってるよりずっと少ないよ。愛人に見栄張って散財してるはずだから」


母が息を呑む気配がした。


「二ヶ月。……たぶん、それくらいで破綻する」


「は、破綻って」


「金が尽きて、愛想を尽かされるってこと。その時、父さんがどう動くか。私が一番近くで監視しておく。お母さんは、弁護士さんに相談して、離婚の手続きを淡々と進めて」


母の手が、私の腕を強く掴んだ。


ようやく、私の意図を理解してくれたようだ。

これは「裏切り」ではなく「潜入工作」なのだと。


「凛、でも……あなたが辛い思いをするわ。あの人と、その相手の女の人と暮らすなんて」


「平気。受験勉強よりは楽勝だよ」


私がわざとらしく笑うと、母も少しだけ、泣き笑いのような表情を見せた。


「……わかったわ。凛がそう言うなら、信じる。でも、無理だと思ったらすぐに帰ってくるのよ? ここはあなたの家なんだから」


「うん、ありがとう。あ、あとで連絡用のメールアドレス変えるね。父さんにバレないように」


その時、リビングのドアが開き、父が戻ってきた。


表情は少し引きつっている。

おそらく電話口でミナに文句を言われたのだろう。


「お、おい凛。ミナも……その、会えるのを楽しみにしてるってさ」


「ほんと? よかった!」


満面の笑みで答える私。


母はもう泣いていなかった。

冷めた紅茶を一口飲み、静かに父を見据えている。


その目には、長年連れ添った夫への情ではなく、ゴミを見るような冷徹な光が宿り始めていた。


「じゃあ、引っ越しは今週末でいいな? 俺の荷物と、凛の荷物をまとめるぞ」


「はい、お父さん」


こうして、奇妙な同居生活へのカウントダウンが始まった。


私は知っている。

父が「資産家」気取りでいられるのも、ミナが「玉の輿」だと信じていられるのも、すべては砂上の楼閣だということを。


私がその砂を、少しずつ、確実に崩してあげる。


これは、大好きな母さんを傷つけた彼らへの、ささやかな親孝行だ。


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