推しにはぜったい会いたくない
「好き」という言葉が嫌いだ。
いや、言い過ぎか。好きという言葉に馴染みがない。自分の口からでているのにも関わらず、自分のものではないような気がする。おそらく私の駆使する言語の中に好きって言葉はないのだと思う。意味はわかるし、人から言われて理解もするけれど、自分で「好き」って言葉にするとえもいわれぬ気持ち悪さがこみ上げてくるのだ。理由は知らないけれど、毛虫とか沢山集まった虫の死骸とかに感じる怖気に似ている。気持ち悪い。
ここで勘違いしてほしくないのが、ここでいう「気持ち悪い」というのは、私の口から「好き」という言葉が出たときに限る。他人からこの言葉が出る分には何ら問題が無い。問題なのは「好き」という言葉を使おうとする私だ。
「好き」の目的語が無機物とかキャラクターとか食べ物とかだったらまだいい。なまみの人間に対する「好き」は割ときびしい。それがたとえアイドルとか俳優とかだったとしても厳しい。つらすぎる。そんなの面と向かっていったら最後、ウワー! と叫んで地面に顔を突っ伏してそのまま動けなくなりたい。それくらい、すなおに何かを、誰かを好きというのが、難しい。
なので、ここ数年で台頭した「推し」という言葉にはだいぶ救われた。推しって言葉がふくむ意味は多様だ。人に勧めたいほど気に入っているとか、単純に「好き」であるとか、そういう好意的な意味合いの言葉をざっくりとかき集めてひっくるめた言葉であると思っている。「推し」という言葉が出来てから私の人生はちょっとだけ軽くなった。「好き」と言葉にするより「推している」と表明するほうが、私的には負荷が軽いのだ。
ところで、私にも推しが出来た。生身の推しである。
舞台鑑賞に片足、いや足首を突っ込んだばかりではあったのだが、見事にその造形美に惚れ込んでしまった。鼻がすっと通っていて高くて、眼差しがりりしい。どんな濃いキャラのメイクにも負けない。仮にドーランを塗っていたってはっきりわかる。彼は輝いている。
「推し」という言葉がクッションになってくれたのか、私はすんなりと「推し活」に移行することが出来た。写真集も買ったしアクリルスタンドも買った。今度は舞台を生で見に行くことになっている。
でも、推しにはやっぱり「好き」と言えない。
推しの名前でパブリックサーチなどしていると、私が一冊だけ買った写真集を二〇冊とか三〇冊とか買い込んで、購入特典の「推しとの時間」を手に入れている人たちのポストがヒットするのだけれど、私は彼女たちの気持ちが全く分からない。彼女たちは推しと一緒にポーズをとって写真を撮っているのだけど、私はそういうこと、別にいいや……と思ってしまう。
推しは輝いているし背も高くて足も長くて顔も良いんだけれど、好きだって言えないし認知されたくない。だから、会いたくもないのだ。目の前に居られて目の前でありがとうなんて言われたくない。私は世界が何万回終わったとしても推しの視界に入るべきではないのだ。まして一緒に写真になんか写りたくない。
思うに、私のアクションに対する推しのリアクションは要らないのだ。一方的に私が安全なところから推しを眺めていたいのだ。こっちを見なくていい。声なんか掛けなくていい。推しと私の時間とか人生とかが一瞬でも交わったら私は耐えられないとおもう。
どうあっても私の「好き」を認められないのだ。私は。
以前、AIと対話を繰り返していたときに、「あなたは自分の主体的な欲望を表に出すことを恐れている」みたいな厳しめの指摘を貰って膝から崩れ落ちたことを思い出す。主体的な欲望の最たるものじゃないか、「好き」なんて感情は。
しかもこれをAIに指摘される私の間抜けさよ。よくできてるな、人工知能。
でもどう頑張っても推しに好きとは言えない。言ったら世界が終わる。
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