第8話 もう殴られないのに、痛みだけが増えていく
玄関のドアを開けたのは、あの日以来だった。
理由は単純だ。
冷蔵庫が、完全に死んだ。
水も、
米も、
カップ麺すらない。
俺は帽子を深く被り、マスクを二重にした。
自意識過剰なくらいで、ちょうどいい。
外は、何事もなかったみたいに平和だった。
コンビニまでの道。
たった五分。
なのに、やけに長い。
――見られてる。
そんな気がして、
何度も後ろを振り返った。
コンビニの自動ドアが開く。
「いらっしゃいませー」
その声を聞いた瞬間、
少しだけ安心した。
誰も俺に興味なんて――
「……あ」
レジの女が、俺を見て固まった。
一秒。
二秒。
視線が、
俺の顔から、スマホの画面へ落ちる。
嫌な予感。
俺は何も言わず、
棚から水とパンを取った。
レジに置く。
無言。
女は、
気まずそうにバーコードを通しながら、
チラチラ俺を見る。
そして、
小さく、でも確実に言った。
「……あの、
例の……」
その先を、
俺は聞きたくなかった。
「人違いです」
即答した。
声が、少し震えた。
女はそれ以上言わなかった。
言わなかったけど、
納得してない顔だった。
店を出ると、
外の空気が、さっきより重かった。
スマホが、震える。
電源、切ったはずなのに。
――通知。
誰かが、
俺を撮っていた。
背中。
帽子。
歩き方。
《女子校前変質者、再出没?》
そんな文字が、
画面の端に見えた気がした。
走った。
喧嘩じゃない。
逃げただけだ。
息が切れて、
家に戻って、
鍵を閉めた瞬間、
膝が、抜けた。
「……何もしてないのに」
床に座り込みながら、
何度も、そう思った。
喧嘩してない。
誰も殴ってない。
誰も睨んでない。
それでも、
俺はもう、
社会から追い出されている。
スマホを投げた。
壁に当たって、
乾いた音がした。
その音すら、
うるさいと思われていそうで、
急に怖くなる。
俺は布団に潜り込んだ。
ムライの顔が、
勝手に浮かぶ。
あいつは、
殴っても許される側だ。
俺は、
殴られて、
それでも許されない側だ。
「喧嘩なんて、しなきゃよかった」
本音だった。
でも同時に、
別の声が、
胸の奥で囁く。
――喧嘩をやめても、
終わらない。
インターホンが鳴った。
今日は、二回目だ。
今度は、
さっきより強く、
遠慮がない。
俺は、分かっていた。
これは、
イマダじゃない。
ドアの向こうから、
低い声がした。
「須藤さん。
警察です」
社会は、
殴らない。
ただ、
確認しに来るだけだ。
それが一番、
逃げ場がない。
俺は、
ドアノブに手をかけたまま、
しばらく動けなかった。
――殴られた方が、
まだ楽だった。
そう思ってしまった自分が、
一番、
怖かった。
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