第3話 無罪を確かめるための尾行
最初に異変を感じたのは、駅の改札だった。
視線。
はっきりとした敵意ではない。
むしろ、仕事のように淡々とした目。
改札を抜けたあと、歩調を変えてみる。
早める。
遅らせる。
――ついてくる。
距離は一定。
人混みに紛れると少し離れ、空くと詰める。
経験がある人間の動きだった。
喉が、からからに渇いた。
警察。
そう確信した瞬間、頭の中が一気に騒がしくなる。
――捕まる?
――事情聴取?
――いや、何の容疑で?
何もしていない。
それなのに、足が重くなる。
---
あとで知ったことだが、これは「捜査」ではなかった。
世論が過熱しすぎた結果、
**警察が“無罪を確認するため”に動いた**だけだった。
疑われすぎている。
このままでは、何もなくても騒ぎが拡大する。
だから、尾行する。
問題が起きないことを、確認する。
それが、警察側の論理。
だが、当事者である僕に、そんな事情が分かるはずもなかった。
---
帰り道、わざと人通りの少ない道を選んだ。
理由は単純だ。
誰かに見られながら、自宅に戻りたくなかった。
背後の気配は、消えない。
一定の距離。
一定の足音。
角を曲がっても、
横断歩道を渡っても、
必ず、同じように続く。
呼吸が浅くなる。
――このまま、家まで?
――いや、途中で止められる?
恐怖が、思考を侵食していく。
そのとき、不意に頭をよぎった。
**あの文字。**
使うな。
絶対に使うな。
そう言い聞かせてきたはずなのに。
---
路地の入口で、足が止まった。
自分でも、なぜそこで止まったのか分からない。
逃げ場がないと感じたのか。
それとも、覚悟を決めたのか。
スマホケースから、スタンプを取り出す。
小さな文房具屋で買った、ただのゴム印。
手が、震えている。
――直接、見せなければいい。
――ただ、近づいたら見える場所に。
誰に言われたわけでもないのに、
頭の中で、言い訳が始まる。
地面に、押した。
**川。**
アスファルトに、くっきりと残る文字。
自分でも、何をしているのか分からなかった。
足音が、近づく。
数秒後、背後で鈍い音がした。
振り向く勇気はなかった。
倒れる音。
人が地面に崩れる気配。
――やってしまった。
全身の血が、冷えた。
それでも、逃げた。
振り返らず、走った。
---
事件にはならなかった。
倒れた人物は、軽い打撲だけで済んだ。
理由は「急な体調不良」。
公には、何も発表されない。
だが、内部ではざわついた。
**尾行を始めた途端に気絶。**
偶然にしては、出来すぎている。
---
その夜、神谷玲の配信が始まった。
タイトルは、軽いものだった。
「最近の話題について、少しだけ」。
僕は、見るつもりはなかった。
でも、指が勝手に動いた。
画面の向こうで、彼女はいつも通り落ち着いていた。
「今日は、確定したことを話すつもりはありません」
前置き。
それだけで、胸が苦しくなる。
「ただ……不思議なことが、ひとつ」
コメント欄が流れる。
「尾行をした警察官が、
尾行を始めた“直後”に気絶したそうです」
一瞬、言葉を失った。
「体調不良、と処理されています。
でも、タイミングが、あまりに綺麗」
彼女は、首を傾げる。
「もちろん、偶然です。
偶然でなければ、困ります」
笑顔。
「でも……」
また、その一言。
「“追ったら倒れる”という現象があるとしたら」
コメントが、跳ね上がる。
「それって、面白いですよね」
面白い。
その言葉が、胸に突き刺さった。
「怖い、という意味でも。
興味深い、という意味でも」
断定はしない。
犯人とも言わない。
それでも、その瞬間。
何かが、確実に生まれた。
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翌日から、街の空気が変わった。
視線が、増えた。
距離を詰めてくる人が、現れた。
スマホを構えたまま、後ろを歩く影。
あからさまに、試すような動き。
一方で、露骨に避ける人もいた。
目を逸らす。
早足で離れる。
「気絶するらしいぞ」
そんな囁きが、聞こえた気がした。
尾行すると、倒れる。
それが、噂になり始めていた。
誰かが、面白がり。
誰かが、恐れ。
誰かが、無視を決め込む。
世界が、二つに割れていく。
---
部屋に戻り、ドアを閉めた。
床に座り込み、頭を抱える。
無罪を証明するための尾行が、
疑惑を増幅させた。
誰も、悪くない。
それが、一番、救いがなかった。
机の引き出しに、スタンプがある。
捨てる勇気はなかった。
持つ勇気も、なかった。
ただ、分かってしまった。
――これは、もう戻れない。
疑われているのは、僕じゃない。
**現象そのものだ。**
そして、
その現象の名前に、
僕の人生が、紐づけられている。
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