第18話 さよなら、完璧で退屈な鳥籠。

 金属の冷たい感触が、指先から熱を帯びていく気がした。

 俺は、静から渡された鍵を握りしめたまま、客室のドアを見つめていた。


「どうしました? 湊くん」


 静が不思議そうに首を傾げる。


「開けないんですか? それとも、やっぱり私が正しいと理解してくれましたか?」


 彼女は微笑んでいた。

 その笑顔は、どこまでも慈愛に満ちている。

 けれど、今の俺にはそれが、精巧に作られた能面のようにしか見えなかった。


「静」


 俺は静の方を向かずに、ドアノブに手をかけた。


「君の料理は美味しいよ。部屋も綺麗だし、君といれば何も考えなくていいから楽だ」


「でしょう? なら……」


「でも、俺はペットじゃない」


 カチャリ。

 鍵が回る音が、静寂を切り裂いた。


 静の笑顔が凍りついた。


「……湊くん?」


「俺は人間だ。面倒くさくて、間違いばかりで、君が言うような『完璧な管理』には馴染めない、ただのダメな人間なんだよ」


 ドアを開ける。

 そこには、床に座り込み、泣き腫らした目でこちらを見上げる梨花の姿があった。


「……湊、くん……?」


 梨花は信じられないものを見るように俺を見た。

 俺は彼女の前に膝をつき、震える手を掴んだ。

 あの雨の日、俺が振り払ってしまったその手を。


「ごめん、梨花」


「え……」


「俺、逃げてた。お前のうるささからも、向き合うことからも。……あの日、雨の中でお前を置いていったこと、ずっと後悔してた」


 梨花の瞳から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。


「う、うわぁぁぁぁん! バカ! 遅いよぉ……!」


 梨花が俺にしがみつく。

 その体温は熱く、汗と涙でぐしゃぐしゃで、そしてどうしようもなく「生きて」いた。

 静の部屋の無機質な冷たさとは違う、脈打つ命の重さがあった。


「……残念です」


 背後から、温度のない声が聞こえた。

 振り返ると、静が立っていた。

 彼女は怒ってはいなかった。

 ただ、壊れたおもちゃを見るような、虚無の瞳で俺たちを見下ろしていた。


「せっかく、湊くんを『汚染』から守ってあげようと思ったのに」


「それは愛じゃないよ、静」


 俺は梨花を背に庇いながら立ち上がった。


「君がしているのは管理だ。……俺たちが最初に出会った時、図書室で君が見せてくれた笑顔。あれも全部、計算だったのか?」


 静は一瞬、きょとんとした顔をした。

 そして、クスクスと笑い出した。


「ふふ、あはは! 計算? 違いますよ」


 彼女は、愛おしそうに自分の頬に手を当てた。


「あれは『観察』です。最適なタイミングで介入するための」


 ゾクリと肌が粟立った。

 やっぱり、最初から仕組まれていたんだ。俺が梨花と別れて弱る瞬間を。彼女はずっと、俺という「サンプル」を狙っていたのだ。


「行きましょう、湊くん」


 梨花が俺の手を引いた。

 彼女の足取りはまだ覚束ないけれど、その力は強かった。


「こんなとこ、一秒だって居たくない」


 俺たちは玄関へ向かった。

 静は追いかけてこなかった。

 ただ、リビングの中央で、冷めていくハンバーグを見つめながら、独り言のように呟いた。


「……また、失敗しちゃいましたね。次のサンプルを探さないと」


 その言葉が、俺の背中に冷たい杭のように突き刺さった。

 彼女にとって俺は、愛する人ですらなく、ただの「理想を実現するための実験台」だったのかもしれない。


 ガチャリ。

 玄関のドアを開ける。

 外の世界の空気が流れ込んでくる。

 それは排気ガス混じりで、決して綺麗ではなかったけれど、自由の匂いがした。


「行こう」


 俺たちは走り出した。

 もう二度と、あの綺麗な鳥籠には戻らない。

 たとえこの先、泥沼のような面倒な日常が待っていたとしても、俺は自分の足で歩くことを選んだんだ。

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