第17.6話 【過去編・後】そして俺は、その騒がしい愛に耳を塞いだ。

 六月。梅雨入りのニュースが流れた数日後のことだった。


 俺たちの関係は、湿気を含んだ空気のように重苦しくなっていた。

 梨花の束縛は日に日にエスカレートしていた。

 5分おきのLINE。GPSアプリの導入の強要。クラスの女子全員の連絡先削除の要求。

 それは彼女なりの「愛の防衛本能」だったのかもしれないが、俺にとってはただの「首輪」でしかなかった。


「なんでわかってくれないの!」


 下校途中の公園。

 灰色の雲が垂れ込める空の下、梨花の金切り声が響いた。


「既読ついたのに、なんで三時間も返信くれないの? インスタのストーリーは上げてるのに!」


 原因は、いつもの些細なことだった。

 俺が男友達とゲームをしていて、LINEの返信を後回しにしたこと。ただそれだけだ。


「友達と遊んでただけだって。そんなに怒ることかよ」

「怒るよ! 私、ずっと待ってたんだよ? 事故に遭ったんじゃないかとか、誰か他の女といるんじゃないかとか、心配でスマホ手放せなかったのに!」


 梨花が俺の胸をドンと叩く。

 その必死さが、当時の俺にはただただ「重荷」だった。

 かつて「半分結婚したようなもの」と笑い合った合鍵も、今では彼女がいつでも俺の部屋に侵入し、スマホをチェックするための「監視ツール」に成り下がっていた。


(……ああ、疲れた)


 ふと、その言葉が脳裏を支配した。

 彼女のことは好きだ。中学の頃からずっと、特別だった。

 でも、この「好き」を維持するためのコストが、今の俺のキャパシティを超えてしまっていた。


 俺はただ、平穏に過ごしたいだけなのに。

 誰も怒鳴らず、誰も泣かず、静かな部屋で息がしたいだけなのに。


 ポツリ。

 頬に冷たいものが当たった。

 雨だ。


「もういいよ、梨花」


 俺の声は、降り始めた雨音よりも冷えていた。


「え?」


「別れよう。俺たち、もう無理なんだよ」


 言ってしまった。

 一度口に出すと、もう止まらなかった。

 堰(せき)を切ったように、溜め込んでいた疲労が溢れ出した。


「お前の束縛は異常だよ。俺の交友関係に口出して、監視して……俺は、お前の所有物じゃないんだ」


 ザアアアアッ!

 雨脚が一気に強くなる。

 世界が白く煙るほどの土砂降り。

 梨花は濡れるのも構わず、呆然と立ち尽くしていた。

 自慢の巻き髪が濡れて張り付き、マスカラが黒い涙となって頬を伝う。


「やだ……」


 梨花が震える手で、俺の袖を掴んだ。


「やだよ、湊くん。別れるなんて言わないで。……直すから。私、我慢するから。もううるさく言わないから!」


 彼女は泣きじゃくりながら、俺にしがみついた。

 その手は冷たくて、痛いほど強く握りしめられていた。


「お願い、捨てないで! 好きなの! 湊くんがいないと生きていけないの!」


 その叫びは、悲痛な愛の告白だった。

 なりふり構わない、剥き出しの感情。

 でも、当時の俺はそれを「騒音」としか感じられなかった。

 この湿っぽい状況から、一刻も早く逃げ出して、乾いた部屋に帰りたかった。


「……放せよ」


 俺は、梨花の手を振り払った。

 強引に。残酷に。

 彼女がよろめき、泥水の中に尻餅をつく。


「湊くん!」


 俺は背を向けた。

 後ろから名前を呼ぶ声がしたけれど、振り返らなかった。

 雨音が激しくて、彼女が最後に何かを叫んでいたけれど、よく聞こえなかった。


 ――いや、違う。

 聞こうとしなかったんだ。

 「耳を塞ぐ」という選択をしたんだ。


 ずぶ濡れになりながら家路を急ぐ俺の心には、罪悪感よりも、「やっと解放された」という安堵感が広がっていた。

 これでもう、スマホの通知に怯えなくていい。

 誰にも干渉されず、自由になれる。


 その翌日だ。

 図書室で、霧島静と出会ったのは。

 雨上がりの陽射しの中で、埃ひとつない清潔な空気を纏っていた彼女に、俺は「理想の静寂」を見出したのだ。


 ◇


 現在。

 俺の手には、冷たい鍵が握られている。


 あの時、俺が求めた「静けさ」の正体がこれだ。

 他人の介入を許さない、完全な遮断。

 感情を排除した、完璧な管理。


 ドアの向こうで、梨花が泣いている。

 あの雨の日と同じだ。

 彼女はずっと、不器用なほど必死に、俺を求めて叫んでいたんだ。

 それを「うるさい」と切り捨てた結果が、この鳥籠だ。


 俺は、また同じ過ちを犯すのか?

 この鍵を開けずに、見殺しにするのか?


 静が背後で微笑んでいる気配がする。

 彼女は確信しているのだ。

 湊くんは、弱くてズルい人だから。

 結局は「楽な方」へ流れる人だから、絶対に鍵を開けない、と。


 ――ざけんな。


 俺の奥底で、何かが弾けた。

 それは、管理された飼育小屋で飼い殺しにされていた、俺の最後の「人間としての意地」だった。

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