第17.5話 【過去編・前】あんなに輝いていた季節が、僕たちにも確かにあった。

 記憶の蓋が開く。


 ドアの向こうから聞こえる梨花の枯れた泣き声が、俺を、まだ何もかもが綺麗だったあの頃へと引き戻した。

 ドロドロとした執着も、冷徹な管理もなかった、中学三年の春へ。


 ◇


「あのね、湊くん!」


 放課後の教室。夕焼けがオレンジ色に染める窓辺で、彼女は恥ずかしそうにブレザーの裾を握りしめていた。

 当時、クラスの委員長だった梨花。

 今のような派手な巻き髪も、短すぎるスカートも履いていない。

 黒髪のボブカットが似合う、真面目で、少し強気で、でも笑うと人懐っこい少女だった。


「私、湊くんのことが好きなの! ……付き合ってくれませんか?」


 直球の告白だった。

 俺は驚いて、言葉が出なかった。

 梨花は当時から男子に人気があったけれど、俺は目立たない平凡な生徒だったからだ。


「……本当に、俺でいいの?」

「湊くんがいいの! いっつも私のこと手伝ってくれるし、優しいし……私、ずっと見てたんだからね!」


 彼女の笑顔は、夕日よりも眩しかった。

 俺たちはその日から、不器用ながらも恋人同士になった。


 幸せだった。

 手を繋いで帰る通学路の温度。

 テスト勉強と称して、図書室でこっそり筆談したルーズリーフ。

 俺の部活の試合に、誰よりも大きな声で応援に来てくれたこと。


 梨花の愛は、真っ直ぐで、混じり気がなかった。

 俺の世界は彼女中心に回り始め、彼女の世界もまた、俺で満たされていた。


 ◇


 変化が訪れたのは、高校に入学してすぐのことだ。

 俺たちは同じ高校に進み、俺は通学のために親元を離れ、今のマンションで一人暮らしを始めた。


「はい、これ」


 四月のある日。俺は引越しのダンボールが積まれた部屋で、梨花に銀色の鍵を渡した。

 合鍵だ。


「えっ、いいの!?」


「いいよ。梨花なら、いつでも来ていいし」


 梨花は鍵を宝物のように両手で包み込み、目を輝かせた。


「嬉しい……! これってさ、もう半分結婚したようなもんだよね!?」


「気が早いって」


「いいの! あー、楽しみだなあ。毎日ご飯作りに行くね! 湊くんのパンツも私が洗ってあげる!」


「それは自分でやるよ!」


 二人で笑い合った。

 この狭いワンルームが、俺たちの「城」になるはずだった。

 この合鍵は、永遠に続く愛の証明になるはずだった。


 けれど、高校という新しい環境は、少しずつ、でも確実に歯車を狂わせていった。


 梨花は高校デビューで髪を染め、メイクを覚え、瞬く間に「学園のマドンナ」として注目されるようになった。

 彼女の周りには常に人が集まり、華やかなグループの中心にいた。

 対して俺は、相変わらず地味なままだ。


 普通なら、俺が劣等感を抱くところだろう。

 でも現実は逆だった。

 梨花の方が、異常なほどに不安を募らせていったのだ。


『湊くん、今の誰? クラスの子?』

『なんで他の女子と話すの? 私という彼女がいるのに』


 彼女は、自分が華やかになればなるほど、「湊くんが私を捨てて、他の誰かを好きになるんじゃないか」という妄想に囚われていった。

 愛が深すぎるゆえに、彼女は俺を自分の「内側」に閉じ込めようとし始めた。


 幸せだった「城」は、いつしか息苦しい「独房」へと変わりつつあった。

 そして、梅雨入りのニュースが流れる六月。

 限界を迎えた俺たちは、決定的な破局の日を迎えることになる。

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