第17話 結局のところ、誰が一番愛しているかという問いに正解などない。

 肉汁の溢れるハンバーグは、皮肉なほどに美味しかった。


 警察が去った後のリビング。

 僕と静は向かい合って夕食を摂っていた。

 照明は明るく、テレビからはバラエティ番組の笑い声が流れている。

 一見すれば、どこにでもある幸せなカップルの食卓だ。


 ――たった一つ、壁の向こうから聞こえる、嗚咽交じりの泣き声を除けば。


「……うぅ……湊くん……」


 客室に閉じ込められた梨花の声は、もう枯れ果てていた。

 ドアを叩く力も残っていないのか、時折、爪で壁を引っ掻くようなカリカリという音が聞こえるだけだ。

 その音が、僕の神経をヤスリのように削っていく。


「美味しいですか? 湊くん」


 静が小首を傾げて尋ねてくる。

 僕は機械的に頷いた。


「……うん。美味しいよ」


「よかった。今日はナツメグを少し多めにしたんです。精神安定作用がありますから」


 静は満足そうに微笑み、自分の皿の野菜を口に運んだ。

 彼女は、壁の向こうの梨花を完全に「いないもの」として扱っていた。

 その徹底した無視こそが、彼女の異常さを際立たせていた。


 カチャ、とフォークを置く音が響く。

 静が真剣な眼差しで僕を見つめた。


「湊くん。貴方はまだ、迷っているようですね」


「え……」


「あの部屋のドアを開けるか。それとも、このまま私との生活を続けるか」


 図星だった。

 僕はハンバーグを喉に詰まらせそうになった。

 当然だ。梨花をこのままにしておけるわけがない。隙を見て鍵を開け、彼女を逃がすべきだ。それが人として正しい行いだ。


 だが、静は僕の思考を読み透かしたように続けた。


「考えてみてください、湊くん。誰が一番、貴方を愛しているのかを」


 彼女は立ち上がり、ゆっくりと僕の背後に回った。

 華奢な腕が、僕の首に回される。

 甘いシャンプーの香り。


「天堂さんは、貴方に何を求めましたか? 『LINEを返せ』『会いに来い』『私を見ろ』……彼女の愛は『要求』です。貴方の時間と精神を搾取し、自分の空腹を満たすための愛です」


 耳元で囁かれる言葉は、呪文のように僕の脳に染み込んでいく。


「でも、私は違います」


 静の手が、僕の胸元――心臓の上あたりを優しく撫でる。


「私は貴方に何も求めません。ただ、貴方が健康で、安全で、快適であることを望んでいます。掃除も、洗濯も、害虫駆除も、すべて私がやります。貴方はただ、この綺麗な部屋で、私の作ったご飯を食べて、笑っていればいいんです」


 それは、悪魔の契約だった。

 自由と引き換えに得られる、永遠の安息。

 自分で考えなくていい。傷つかなくていい。

 静という完璧な管理システムに身を委ねれば、僕はもう二度と、人間関係の煩わしさに悩むことはないのだ。


「彼女の元に戻れば、またあの騒がしい日々が始まりますよ? 喧嘩して、スマホを覗かれて、束縛されて……疲弊するだけの毎日です。本当に、そっちの方がいいんですか?」


 静の声が、甘く溶けていく。

 僕は揺らいでいた。

 悔しいけれど、今の生活は快適すぎた。

 梨花との日々は、確かに楽しかったけれど、同じくらい疲れた。

 「人間らしい体温」は、時に火傷するほど熱くて、鬱陶しいのだ。


「さあ、選んでください」


 静が僕のポケットに、何かを滑り込ませた。

 冷たくて硬い金属の感触。

 客室の鍵だ。


「今なら、私は見て見ぬ振りをしてあげます。……その鍵で彼女を出して、二人でここから出て行っても構いません」


 試されている。

 静は知っているのだ。僕がもう、この「鳥籠」の心地よさに毒されていることを。

 自分から逃げ出す勇気などないことを。


 僕は立ち上がり、客室のドアの前まで歩いた。

 鍵穴に鍵を差し込む。

 あとは、これを回すだけだ。

 そうすれば梨花は解放される。

 でも――。


『……湊くん……ごめんね……私が、ワガママだったから……』


 ドアの向こうから、梨花の消え入りそうな声が聞こえた。

 泣いていた。

 怒っているんじゃない。ただ、後悔して泣いていた。


 その泣き声を聞いた瞬間。

 僕の脳裏に、強烈な既視感が走った。


 雨の音。

 冷たいアスファルトの匂い。

 ずぶ濡れになりながら、僕の袖を掴んで泣きじゃくる少女の姿。


 ――ああ、そうだ。

 あの日も、そうだった。

 僕は梨花の涙から目を逸らし、自分の「楽さ」を選んで背を向けたんだ。


 鍵を握る手が震える。

 過去の記憶が、濁流のように押し寄せてきた。

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