【結末編:朝日は誰を照らす】

第16話 もはや、警察を呼ぶという選択肢は最初から存在しなかった。

 そのチャイムの音は、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように響いた。


 ピンポーン。


 乾いた電子音が部屋の空気を震わせる。

 キッチンでハンバーグを焼いていた静の手が、ピタリと止まった。

 客室に閉じ込められている梨花が、その音に反応してさらに激しくドアを叩く。


「誰か! 助けて! ここにいるの!!」


 防音ドア越しでも、その必死な叫びは微かに漏れ聞こえていた。

 近隣住民が通報したのだろうか。

 それとも、梨花がタクシーを待たせていた運転手が不審に思って警察を呼んだのか。


 モニターを確認する。

 画面に映っていたのは、制服を着た二人の警察官だった。


「湊くん」


 僕が声を上げようとした瞬間、静が氷のような声で制した。

 彼女の手には、銀色に光るステーキナイフが握られている。……わけではない。彼女はただ、フライ返しを持っていた。

 だが、その威圧感は凶器のそれと同じだった。


「どうしますか? 警察を入れたら、天堂さんは『住居侵入罪』と『器物損壊罪』で現行犯逮捕ですよ?」


「……え?」


「忘れたんですか? ここは私の管理下にある家です。そして彼女は、勝手に押し入り、コンセントを破壊した。……警察を呼べば、彼女の経歴に傷がつきます。退学になるかもしれませんね」


 静は淡々と言った。

 その論理はあまりにも狡猾だった。

 僕が助けを求めれば、それは同時に梨花を犯罪者として突き出すことになる。

 彼女は僕の優柔不断さと、梨花への未練を計算に入れているのだ。


「大人しくしていてください。私が対応します」


 静はエプロンを外し、鏡の前でサッと髪を整えた。

 その一瞬で、彼女の表情が変わる。

 狂気じみた支配者の顔から、誰もが信頼する「清楚で儚げな美少女」の顔へ。


 彼女は玄関へ向かい、チェーンをかけたまま少しだけドアを開けた。


「はい、どちら様でしょうか?」


 声色が、驚くほど落ち着いている。

 怯えも、焦りもない。深窓の令嬢のような丁寧な声だ。


『夜分にすみません。××署の者ですが。近隣の方から、女性の叫び声がするという通報がありまして』


「ああ……申し訳ありません」


 静は困ったように眉を下げてみせた。


「実は、友人と映画の鑑賞会をしていたんです。ホラー映画を観ていて、少し音量が大きすぎたみたいで……。防音には気をつけていたつもりだったんですが」


『映画、ですか? でも、「助けて」という声が聞こえたそうですが』


「ええ、そういうシーンでしたので」


 その時だった。

 奥の部屋から、ドンッという衝撃音と共に、梨花の声が響いた。


「嘘よ! 監禁されてるの! 警察の人、助けて!」


 警察官の顔色が変わる。

 僕は息を呑んだ。バレた。これで助かる――。


 しかし、静は溜め息をつき、さらに声を落として警察官に耳打ちした。


「……すみません、お巡りさん。本当のことを言います」


『え?』


「実は、奥で叫んでいるのは彼氏の元カノさんなんです」


 静は悲劇のヒロインのように目を伏せた。


「別れ話がこじれてしまって、無理やり家に押しかけてきて……。今、彼氏と二人でなだめているところなんです。興奮して『監禁だ』とか『殺される』とか叫んでいて……手がつけられなくて」


『なんと……それは大変ですね』


「はい。警察沙汰にすると学校に連絡がいってしまいますし、彼女の進路にも関わりますから。……なんとか、私たちだけで話し合って落ち着かせようとしているんです」


 静の瞳が潤んでいる。

 「彼氏の元カノの乱入に耐える、健気な今カノ」という完璧な演技。

 彼女の清楚な見た目と、丁寧な言葉遣い。

 それだけで、警察官の目から疑念の色を消すには十分だった。


『なるほど、そういうことでしたか。……まあ、高校生同士の痴話喧嘩に我々が介入するのも野暮ですからね』


 警察官は苦笑いをした。


『ですが、近所迷惑にはならないように。あまり騒ぐようなら、親御さんに連絡しなさいよ』


「はい、肝に銘じます。ご心配おかけして申し訳ありませんでした」


 静は深々と頭を下げた。

 警察官は敬礼して去っていった。

 遠ざかる足音。

 ガチャリ。ドアが閉められ、ロックがかかる。


 その瞬間、僕の希望は完全に断たれた。

 社会の正義は、静の味方だった。

 彼女の完璧な外面の前では、梨花の必死の叫びさえも「メンヘラ女の妄言」に変換されてしまうのだ。


「……さて」


 静が振り返る。

 そこにはもう、か弱い少女の顔はなかった。


「邪魔者は帰りましたよ。……湊くん、私の言った通りに大人しくできて偉かったですね」


 彼女は僕の頭を撫でた。

 僕は震えながら、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

 警察ですら助けてくれない。

 この部屋は、地図上から消滅した孤島と同じだった。


「さあ、ハンバーグが冷めてしまいます。食べましょう?」


 奥の部屋からは、まだ梨花がドアを叩く音が聞こえている。

 けれど、その音は先ほどよりも弱々しく、絶望に濡れているように聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る