第15話 残念ながら、この部屋の合鍵を持つ権利はすでに譲渡されている。

 ドンドンドン!!

 分厚い防音扉の向こうから、鈍い音が響く。

 それは梨花が拳で、あるいは体当たりでドアを叩いている音だ。


「出して! ここ開けてよ! 湊くん!!」


 くぐもった叫び声。

 僕は床にへたり込んだまま、荒い息を吐いていた。

 状況を理解するのに数秒かかった。


 さっきの停電。

 あれは偶然じゃない。静が意図的に作り出した「目隠し」だ。

 僕と梨花が視界を奪われ、パニックに陥ったその一瞬。静だけが、正確な動線で動いていた。

 彼女はこの部屋の配置を、僕以上に熟知している。どこに何があり、どこを通れば最短で客室へ行けるのか。

 彼女にとってこの部屋は、もはや他人の家ではない。自分のテリトリーなのだ。


「し、静……開けてやれよ!」


 僕は立ち上がり、静に詰め寄った。

 彼女はキッチンで、何事もなかったかのようにハンバーグのタネを捏ねていた。

 ペチ、ペチ、と粘着質な音が響く。


「ダメですよ、湊くん」


 彼女は振り返りもせず言った。


「彼女は今、興奮状態にあります。あんな状態で外に出したら、また近所に喚き散らして、警察沙汰になります。……少し頭を冷やしてもらう、ただの『冷却期間』ですよ」


「監禁だぞ、これは!」


「保護、です。錯乱した元カノさんを保護してあげているんです」


 静は手を洗い、タオルで丁寧に水気を拭き取ると、ゆっくりと僕の方へ歩いてきた。

 その瞳に、背筋が凍るような冷たさが宿る。


「それより、湊くん。私にはまだ、やるべきことが残っています」


 彼女は監禁部屋の前まで歩み寄った。

 中では梨花がまだ暴れている。


「天堂さん。聞こえますか?」


 静がドア越しに話しかける。

 中の音がふっと止んだ。


『……あんた、警察呼ぶからね。絶対許さない』


 梨花の押し殺したような声。

 静はフッと鼻で笑った。


「警察を呼ぶのは構いませんが、その前に返していただきたいものがあります」


『はあ?』


「合鍵です」


 静の言葉に、僕は息を呑んだ。

 合鍵。ずっと、梨花が返そうとしなかったもの。


「貴女が持っているその鍵。……もう使えないことは、身を持って知りましたよね?」


『……っ』


「シリンダーは私が交換しました。貴女が持っているのは、ただの無意味な鉄屑です。でも、気分の問題として非常に不愉快なんです。……私の湊くんの部屋の鍵を、部外者が持っているという事実が」


 静の声には、激しい独占欲が滲んでいた。

 彼女にとって、鍵とは「権利書」そのものなのだ。

 この部屋に入る権利。湊の世話をする権利。湊の隣に立つ権利。

 それを持てるのは世界でただ一人、私だけでいい。


「ドアの下の隙間から出してください。そうすれば、少しは水くらい差し上げてもいいですよ」


 静かな脅迫。

 沈黙が続いた。

 やがて、カチャリという音がして、ドアの下のわずかな隙間から、銀色の鍵が滑り出てきた。

 かつて僕が梨花に渡した、思い出の鍵。

 梨花なりの「まだ繋がっていたい」という未練の象徴。


 静はそれを拾い上げた。

 まるで汚物でも摘むかのように、親指と人差指だけで。


「……確認しました」


 彼女は冷たく告げると、そのままキッチンのゴミ箱へ向かった。

 そして、躊躇いなく燃えないゴミの袋へ投げ捨てた。

 カラン、と乾いた音がした。


「これで、この部屋の鍵を持つのは湊くんと私だけですね」


 静が振り返り、満面の笑みを浮かべる。

 その笑顔は、純粋な子供のようであり、同時に、すべてを排除し終えた捕食者のようでもあった。


「さあ、ご飯にしましょう。……天堂さんも、お腹が空いたら静かになるでしょうから」


 僕は動けなかった。

 ゴミ箱の底で眠る「元カノの合鍵」。

 そして、壁一枚隔てた向こうにいる「元カノ本人」。

 僕の過去は今、完全に管理され、処分されようとしていた。


 テレビをつけると、呑気なバラエティ番組が流れていた。

 その笑い声だけが、異常な空間の中で空虚に響き渡っていた。

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