第14話 その時、俺が掴んだ元カノの手はあまりにも無力で、冷たすぎた。

 その瞬間、部屋の空気が張り詰めた。

 静が掲げたスマホの画面の中で、僕たちの姿がリアルタイムに映し出されている。

 隠しカメラ。

 盗聴器だけじゃない。彼女は映像すらも支配していたのだ。


「もう……無理だよ」


 梨花が震える声で呟いた。

 彼女はガタガタと震えながら立ち上がり、後ずさりした。


「湊くん、逃げよう。今すぐ」


 梨花が僕の手首を掴んだ。

 その手は氷のように冷たく、汗で湿っていた。


「ここにいたら殺される。精神が壊される。……タクシー、下に待たせてあるから! 私の実家でも警察でも、どこでもいいから逃げよう!」


 梨花の目は本気だった。

 彼女の目には、かつてのワガママな元カノの面影はない。

 ただの生存本能に突き動かされた、怯える小動物のような目だ。


 僕は静を見た。

 静は動かなかった。玄関の前で、買い物袋を提げたまま、静かに首を傾げている。


「逃げる? どうしてですか?」


 静が不思議そうに言う。


「ここは湊くんの家ですよ。私が綺麗にして、私が管理している、世界で一番安全な場所です。……外の世界なんて、細菌と悪意に満ちているのに」


「もう、何言ってんの!? どいてよ!」


 梨花が叫び、僕を引っ張って玄関へ突進した。

 強行突破するつもりだ。

 静の横をすり抜けようとした、その時。


 バチンッ!


 突然、視界が闇に包まれた。

 停電だ。

 ブレーカーが落ちたのではない。日が落ちた夕暮れの室内は、完全な漆黒に塗り潰された。


「きゃっ!?」


 梨花の悲鳴が上がる。

 僕は反射的に彼女を庇おうとした。

 だが、闇の中で「何か」が動く気配がした。

 衣擦れの音。

 甘く、冷たい匂い。


「……逃がしませんよ」


 耳元で、静の囁き声がした。


「湊くんは、私のものです」


 ドンッ!

 強い衝撃が走り、僕は壁に押し付けられた。

 梨花の手が、僕の手首から離れる。


「湊くん!?」

「梨花!」


 暗闇の中で手を伸ばす。

 指先が何かに触れた。

 それは梨花の手だった。

 だが、その手は僕の手を握り返してこなかった。

 彼女は「誰か」に後ろから羽交い締めにされ、口を塞がれているようだった。


「んんーっ! んぐっ!」


 もがく音。

 そして、ズルズルと床を引き摺られる音。


「騒がないでください、天堂さん。近所迷惑になりますよ」


 静の声は、驚くほど冷静で、事務的だった。


「少し頭を冷やしましょうか。……私の用意した『客室』で」


 ガチャリ。

 別の部屋のドアが開く音。

 そして、梨花がその中へ放り込まれる気配がした。


「やだ! 開けて! 湊くん!」


 バンッ!

 ドアが閉められ、外から鍵がかかる音がした。

 カチャリ。

 無機質な金属音が、梨花と僕の世界を分断した。


 その直後、パッと照明が点いた。

 目が眩むほどの明るさの中で、静はブレーカーの前に立っていたのではない。

 彼女の手には、スマートフォンの「スマートホーム」アプリが開かれていた。

 彼女は照明も、電子錠も、全て手元のスマホ一つで操作していたのだ。


「さて」


 静は乱れた髪を指で整え、監禁された梨花が叩くドアの方を一瞥もしなかった。

 そして、へたり込む僕に向かって、優しく微笑んだ。


「夕飯にしましょうか、湊くん。今日はハンバーグですよ」


 彼女のエプロンは真っ白だった。

 だが、僕にはそれが、返り血を浴びたように赤く見えた気がした。

 梨花の「出して!」という叫び声は、分厚い防音ドアに阻まれ、蚊の鳴くような声にしか聞こえなかった。

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