【修羅場編:愛と狂気の直接対決】
第12話 優しく微笑む彼女だけが、その着信の意味を完全に理解している。
その着信音は、静寂な部屋の空気を切り裂く警報のように鳴り響いた。
日曜日の午後。
僕の部屋は、以前とは比べ物にならないほど清潔に保たれていた。
散らかっていた雑誌は紐で縛られ、脱ぎ捨てられた服は洗濯機へ。
窓ガラスは曇り一つなく磨かれ、空気清浄機が静かな駆動音を立てている。
すべて、今隣に座っている彼女――霧島静の仕業だ。
彼女は毎週のように僕の部屋に通い、僕の生活を「最適化」し続けている。
「湊くん。紅茶、淹れましたよ」
静が湯気の立つマグカップをローテーブルに置く。
アールグレイの香り。
かつて梨花が好んで買っていた甘ったるいカフェオレは、いつの間にか棚から消え、代わりに高価な茶葉が並ぶようになっていた。
「ありがとう」
僕は参考書から目を離し、カップに手を伸ばす。
平和だ。
不気味なほどに整えられた、完璧な安らぎ。
しかし、その均衡は唐突に破られた。
ブブブッ、ブブブッ……!
机の上に置いてあった僕のスマホが震えた。
非通知設定の着信。
あるいは、登録していない番号からの電話だ。
僕の交友関係は静によって整理され尽くしている。今さら電話をかけてくる相手など、限られていた。
僕は反射的にスマホを手に取ろうとした。
だが、それより早く、白く細い指が画面の上に伸びた。
「……出なくていいですよ」
静だ。
彼女は微笑んでいた。けれど、その瞳は画面に表示された『公衆電話』の文字を、氷点下の温度で見下ろしていた。
「迷惑電話かもしれません。最近、多いそうですから」
「でも、公衆電話なんて珍しいし……緊急かもしれない」
「緊急なら、警察か消防にかけるはずです」
静の手が、僕の手首に触れる。
ひやりとした感触。スマートウォッチが心拍数の上昇を検知して震える。
着信音は鳴り止まない。
まるで、電話の向こうにいる誰かが、必死に叫んでいるかのように。
「……出るよ」
僕は静の制止を振り切り、通話ボタンを押した。
そして、スピーカーフォンに切り替えた。静に「隠し事はしていない」と証明するためだ。
『――湊くん!?』
部屋に響き渡ったのは、悲痛な叫び声だった。
やはり、梨花だ。
『やっと繋がった……! ねえ、LINEだけじゃなくて電話まで着信拒否にするの!? 家の鍵も開かないし……私、何かした!?』
梨花の声は震えていた。怒りと、焦りと、そして泣き出しそうな不安が混ざり合っている。
当然だ。
彼女のアカウントをブロックしたのは僕(の指を使った静)だし、玄関の鍵を変えたのも静だ。彼女は理由もわからず、突然世界から拒絶されたのだ。
「ごめん、梨花。それは……」
僕が言い淀んだ時だった。
隣で静が、ふふっと小さく笑った。
そして、テーブルに身を乗り出し、スピーカーに向かって鈴のような声を吹き込んだ。
「あら、天堂さん。こんにちは」
一瞬、通話の向こうの空気が凍りついたのが分かった。
『……は? なんで、あんたがそこにいんの』
梨花の声が低くなる。
さっきまでの悲痛な響きが消え、地を這うような敵意が滲み出る。
「湊くんの家ですから。彼女である私がいて、何か不自然ですか?」
『ふざけんな。今すぐ湊くんに代わって』
「代わってますよ? 湊くんもここにいます。……でも、貴女と話すことはもう何もないそうです」
静は僕の方を見て、愛おしそうに目を細めた。
その目は「ね? そうですよね?」と無言の同意を強制していた。
『嘘つかないでよ! 湊くんがそんなこと言うわけない! あんたが洗脳してんでしょ!?』
梨花が叫ぶ。
『ねえ湊くん! 聞いてる!? あの子おかしいよ! 公園のベンチ撤去したのも、私のSNS監視してるのも、全部あの子でしょ!? 気づいてよ!』
痛いところを突かれ、僕は息を呑む。
しかし、静は眉一つ動かさなかった。
「被害妄想が激しいですね。……そういう情緒不安定なところも、湊くんが貴女に愛想を尽かした原因の一つなんじゃないですか?」
『なっ……!』
「過去にしがみついて、別れた男の家に合鍵で侵入して、ストーカーまがいの電話までかけてくる。……見苦しいですよ、元カノさん」
静の言葉は、鋭利なナイフのように的確に梨花のプライドを抉っていく。
普段の敬語が崩れない分、その軽蔑の色は濃い。
『あんたに……あんたなんかに湊くんの何が分かるのよ!』
梨花の声が涙声に変わる。
『私は湊くんのこと一番知ってる! 辛い時も楽しい時もずっと一緒だった! ポッと出のあんたに、湊くんを独占する権利なんてないんだよ!』
直接的な嫉妬の爆発。
過去の時間を武器にした、梨花なりの精一杯の抵抗。
だが、静は冷酷に切り捨てた。
「一番知っている? ……いいえ、違いますね」
静は僕の手を取り、その指を一本一本、確かめるように絡めた。
「貴女が知っているのは『過去のデータ』だけです。今の湊くんの心拍数も、睡眠サイクルも、今日食べた物のカロリーも、これからの予定も……すべて管理しているのは私です」
静の声が、熱を帯びる。
それは勝利宣言であり、狂気じみた所有宣言だった。
「彼は私のものです。……不潔なノイズを入れないでください」
ピッ。
静は僕の指を使って、通話を切った。
プー、プー、プー……。
無機質な電子音が部屋に響く。
「……あ」
僕は何も言えなかった。
梨花の叫びを、自らの手で遮断してしまった罪悪感。
しかし、目の前の静は、憑き物が落ちたような満面の笑みを浮かべていた。
「さあ、湊くん。勉強の続きをしましょうか」
彼女は僕の頬に手を添える。
その手は熱かった。嫉妬と興奮で、火傷しそうなほどに。
「邪魔者は消しましたから。……これからは、私だけの声を聞いてくださいね?」
逃げられない。
僕は悟った。
この部屋はもう、僕の部屋じゃない。
彼女という看守が支配する、快適で残酷な独房なのだと。
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