第11話 こうして、俺の過去のデータは静かに上書き保存されていく。

 人間の記憶とは、ハードディスクのデータのように脆いものだ。

 アクセスする経路を断たれ、新しいファイルを上書きされれば、古い映像は簡単にノイズ混じりの彼方へと消えていく。


 下駄箱の靴の中。

 そこに小さく折り畳まれたメモが入っていたのは、放課後のことだった。

 デジタルな監視網を敷く静の目を欺くための、梨花なりのアナログな通信手段。


『今日、17時。あの公園の、一番奥のベンチで待ってる』


 名前は書かれていなかったが、丸っこい筆跡で分かった。

 「あの公園」とは、学校裏にある古い緑地公園のことだ。

 一番奥の、桜の木の下にあるベンチ。

 そこは、僕と梨花が初めてキスをした場所だった。


 ――行くな。

 理性がそう警鐘を鳴らしていた。

 静にバレたら、今度はシャツを切り刻まれるだけでは済まないかもしれない。

 けれど、僕は足を進めていた。

 梨花の必死さ。そして、静によって剪定され続ける日常への息苦しさが、僕を過去の記憶へと逃避させていたのかもしれない。


 秋の風が冷たい。

 枯れ葉を踏む音が、カサカサと乾いた音を立てる。

 僕は公園の奥へと進んだ。

 心臓が早鐘を打つ。スマートウォッチが振動しそうになるのを、深呼吸で必死に抑え込む。


 桜の木が見えてきた。

 その下にあるはずの、古びた木製のベンチ。

 梨花はそこに座っているだろうか。

 どんな顔で僕を迎えるだろうか。


 しかし。

 そこに広がっていた光景は、僕の予想を裏切るものだった。


「……え?」


 ない。

 ベンチが、ない。


 そこには、真新しいブルーシートが敷かれ、黄色いテープで『立入禁止』の囲いがされていた。

 地面は掘り返され、馴染み深いあの木製のベンチは、無残にも撤去されていたのだ。


「残念でしたね」


 背後から、鈴を転がすような声がした。

 心臓が止まるかと思った。

 恐る恐る振り返ると、そこには静が立っていた。

 手には缶コーヒーを二つ持っている。彼女は、まるで待ち合わせをしていた恋人のように、自然な微笑みを浮かべていた。


「し、静……どうしてここに」


「お散歩です。湊くんこそ、こんな工事現場に何の用ですか?」


 彼女はブルーシートの方を顎でしゃくった。


「老朽化、だそうですよ。あのベンチ、シロアリが湧いていたみたいで。管理事務所に『危険だから撤去してほしい』って要望が殺到したそうです」


 シロアリ。

 彼女は昨日のシャツの時も、そう言っていた。

 『悪い虫』がついている、と。


「……君が、やったのか?」


「まさか。私はただ、一市民として安全な環境作りを提案しただけです」


 静は僕に温かい缶コーヒーを押し付けた。

 そして、まだ土の匂いが残る更地を見つめ、うっとりと目を細めた。


「でも、よかったですね。あんな不潔なベンチ、座ったら服が汚れちゃいますから。……思い出もろとも、綺麗な更地になった方が清々しいです」


 彼女は知っていたのだ。

 ここが僕と梨花の大切な場所であることを。

 だからこそ、物理的に消去した。

 僕が過去に逃げ込めないように、帰る場所そのものを破壊したのだ。


「さあ、行きましょうか。駅前に新しいカフェができたんです」


 静が僕の腕を取る。


「そこなら、椅子も新品で、空調も効いていて、とっても快適ですよ。……そこで、新しい思い出を作りましょう?」


 彼女の力が、逃げられないほど強く僕の腕を締め付ける。

 僕は振り返ろうとした。

 けれど、もうそこには何もない。

 梨花との甘酸っぱい記憶が染み付いた木の感触は、産業廃棄物として処理されてしまった。


「……うん、そうだね」


 僕は諦めて歩き出した。

 スマートウォッチが一度だけ、ブルリと震えた。

 それは、僕の心の中で何かが死に、新しいデータに書き換えられた完了通知のようだった。


 遠くで、カラスが鳴いていた。

 夕暮れの空は、血のようなオレンジ色と、冷たい夜の青色が混ざり合っていた。

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