第10話 どうあがいても、彼女が「虫食いだ」と言い張るその服は切り刻まれている。

 そのシャツは、僕のお気に入りだった。

 淡いベージュのオックスフォードシャツ。

 一年前の誕生日に、梨花がプレゼントしてくれたものだ。


『湊くん、絶対こういう色が似合うって! 私が選んだんだから間違いないよ』


 当時、梨花はそう言って得意げに笑っていた。

 確かにサイズ感も絶妙で、着心地もいい。

 別れた後も、モノに罪はないと思って普通に着ていた。


 あの日、僕はそのシャツを着て静とデートをした。

 待ち合わせ場所の公園。

 静は僕の姿を見るなり、ふと目を細めた。


「……湊くん。その服、少し古くなっていませんか?」


「え? そうかな。まだ全然着れると思うけど」


「そうですか。……なんだか、少し『匂い』が気になったので」


 静はそれ以上何も言わなかった。

 ただ、デート中、彼女は時折そのシャツの襟元や袖口を、無言でじっと見つめていた。

 まるで、そこに目に見えない汚れが付着しているかのように。


 ◇


 異変が起きたのは、翌日のことだ。

 学校から帰宅し、クローゼットを開けた僕は息を呑んだ。


 ハンガーにかかっていたはずのベージュのシャツが、床に落ちていた。

 いや、落ちていたのではない。

 それは無残な姿に変わり果てていた。


 襟は引き千切られ、背中の生地は縦にズタズタに裂けている。

 ボタンは全て弾け飛び、袖はボロ雑巾のように穴だらけになっていた。

 まるで猛獣に襲われたかのような惨状だ。


「な、なんだこれ……」


 空き巣か?

 僕は慌てて他の服を確認した。

 しかし、被害に遭っているのはこのシャツだけだ。他の服には指一本触れられた形跡がない。


 背後で、気配がした。


「あら、大変」


 静だった。

 彼女は当たり前かのように合鍵を使って(昨日のデートで『合鍵、新しく作っておきました』と渡されたのだ)、僕の部屋に入ってきていた。

 彼女は床に散らばる布切れを見ても、悲鳴一つ上げなかった。

 ただ、困ったように眉を下げただけだ。


「虫食いですね」


「……は?」


 僕は耳を疑った。

 虫食い? これが?

 どう見ても刃物で切り刻んだ跡だ。繊維の断裂面が、鋭利な刃物の使用を物語っている。


「静、これは虫じゃないよ。誰かがハサミで……」


「いいえ、虫です」


 静はきっぱりと言い切った。

 彼女はしゃがみ込み、ボロボロになったシャツを拾い上げた。


「タンスの奥に潜む、悪い虫の仕業ですよ。……古い服には、そういう害虫が湧きやすいんです。思い出とか、未練とか、そういうカビ臭い養分を吸って繁殖するんです」


 彼女の瞳は、笑っていなかった。

 その手には、いつの間にかゴミ袋が握られている。


「駆除しないといけませんね。……衛生的に良くないですから」


 彼女は躊躇なくシャツをゴミ袋に放り込んだ。

 そして、カバンから新しい包みを取り出した。


「でも大丈夫です、湊くん。代わりの服、私が買ってきましたから」


 広げられたのは、真っ白なシャツだった。

 清潔で、無菌室のような白さ。

 以前のベージュのシャツとは似ても似つかない、彼女好みの服。


「こっちの方が、今の湊くんにはお似合いですよ。……『悪い虫』がついた服なんて、二度と着たくないですよね?」


 彼女は首を傾げて同意を求めてくる。

 逆らえなかった。

 もしここで「違う」と言えば、次はこのハサミの矛先がどこに向かうのか、想像するだけで恐ろしかったからだ。


「……うん、そうだね。ありがとう」


 僕は震える声で礼を言った。

 静は満足そうに微笑み、ゴミ袋の口を固く結んだ。


 その結び目は、まるで誰かの首を絞めるかのように、きつく、固く締め上げられていた。

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