第9話 気づけば、ブロックリストの更新履歴は午前3時を刻んでいた。
静寂は、本来ならば心地よいもののはずだ。
図書館の静けさや、深夜の寝室の穏やかな空気。
けれど、今の僕を取り巻いている「静けさ」は、どこか真空パックの中に閉じ込められたような、息苦しい閉塞感に満ちていた。
昼休み。
教室の喧騒から切り離されたように、僕の席だけがエアポケットになっていた。
「湊くん、あーん」
隣の席で、静が卵焼きを差し出してくる。
僕はそれを機械的に口に含んだ。出汁の味は完璧で、文句のつけようがない。
周囲のクラスメイトたちは、遠巻きに僕たちを見ているだけだ。以前のように「ヒューヒュー」と茶化してくる奴も、昼食に誘ってくる男友達もいない。
最近、LINEの通知が極端に減った。
来るのは静からのメッセージと、公式アカウントの通知だけ。
中学からの親友である
『最近、付き合い悪いな』
そんなふうに思われて、自然と距離を置かれてしまったのだろうか。
「美味しいですか? 湊くん」
「……うん、美味しいよ」
静は嬉しそうに微笑む。
彼女がいれば、僕は孤独じゃない。彼女はそう言いたいのかもしれない。
だが、僕の胸には鉛のような違和感が沈殿していた。
◇
放課後、下駄箱で靴を履き替えている時だった。
ドンッ、と背中を叩かれた。
「痛っ……なんだよ」
「なんだよ、じゃないでしょ。湊くん」
振り返ると、梨花が不機嫌そうに腕を組んでいた。
彼女の眉間には深い皺が刻まれている。
「あんたさ、何様のつもり? 健二たちが怒ってたよ」
「は? 健二が?」
「とぼけないでよ。先週の土曜日、カラオケ誘ったのに既読無視したでしょ。昨日のオンラインゲームの招待も無視。……彼女できたからって、昔からの友達切り捨てるとか最低だよ」
梨花の言葉に、僕は呆然とした。
「待てよ。誘いなんて来てないぞ」
「嘘つかないで。健二、画面見せてくれたもん。『既読』ついてたよ」
梨花の瞳は真剣だった。彼女は感情的ですぐ怒るが、こういう時に嘘をつくような奴じゃない。
僕は慌ててポケットからスマホを取り出し、LINEを開いた。
トーク履歴をスクロールする。
ない。
健二とのトークルーム自体が、履歴の上位から消えている。
最後にやり取りしたのは二週間前。『また明日な』という会話で終わっている。
「ほら、見てみろよ。来てないんだって」
僕は画面を梨花に見せた。
梨花は画面を覗き込み、そしてハッとしたように目を見開いた。
「……湊くん。ブロックリスト、見た?」
「え?」
「設定画面。今すぐ見せて」
梨花の剣幕に押され、言われるがままに設定を開く。
『友だち』メニューから『ブロックリスト』を選択した瞬間。
僕の思考は凍りついた。
ずらりと並んだ名前。
健二。
中学時代のバスケ部の仲間。
クラスのちょっとした知り合い。
そして――梨花のアカウント。
僕の交友関係のほぼ全てが、そこに放り込まれていた。
「な、なんだこれ……俺、こんな操作してない……」
指が震える。
誤作動? いや、一人や二人ならまだしも、数十人を誤ってブロックするなんてありえない。
誰かが意図的にやらなければ、こうはならない。
「やっぱり……」
梨花が青ざめた顔で呟く。
「湊くん。それ、いつブロックされたか履歴見れないの?」
僕は震える手で、システムログを確認できるアプリ(以前、静に入れてもらった管理アプリの一部だ)を開いた。
皮肉なことに、彼女が入れたアプリが真実を告げていた。
『設定変更履歴:ブロックリストへの追加』
10月20日 03:15
10月21日 03:42
10月23日 02:50
すべて、深夜。
午前3時前後。
僕が深い眠りに落ちている時間帯だ。
想像してしまった。
真っ暗な部屋。ベッドの上。
寝息を立てる僕の横で、静が起き上がる。
彼女は僕の指を掴み、指紋認証でロックを解除する。
そして、暗闇の中で青白く光る画面を見つめながら、僕の友達を一人ずつ、指先一つで消去していくのだ。
『この人は湊くんに必要ない』
『この人は湊くんを夜遊びに誘う悪い人』
『この女は論外』
そんな選別作業を、毎晩。
「……っ」
吐き気がした。
僕はふと、昔のことを思い出した。
梨花と付き合っていた頃のことだ。
当時の梨花は、よく僕に怒っていた。
『また健二たちとゲーム? 私よりゲームが大事なの!?』
『男友達と遊ぶのはいいけど、ちゃんとLINE返してよ!』
うるさかった。面倒くさかった。
彼女の束縛は激しくて、ワガママで、僕はそれに疲れて別れを選んだ。
でも。
梨花は「私を構ってほしい」と騒ぐだけで、僕から友達を奪おうとはしなかった。
僕の世界そのものを壊そうとはしなかった。
彼女の嫉妬には「人間らしい体温」があった。
対して、今はどうだ。
静は怒らない。文句も言わない。
ただ静かに、微笑みながら、僕の世界を剪定(せんてい)している。
邪魔な枝葉を切り落とし、僕という人間を「自分専用の盆栽」に作り変えようとしている。
そこには体温がない。あるのは、冷徹な管理だけだ。
「……湊くん?」
梨花が僕の腕を掴んだ。
その手の温かさが、泣きたくなるほど懐かしかった。
「戻そう。今すぐブロック解除して、みんなに謝ろう。私が説明してあげるから」
「あ、ああ……そうだな」
僕は頷き、解除ボタンを押そうとした。
その時だった。
手の中のスマホが震えた。
静からのメッセージだ。
『湊くん、下駄箱ですよね? お迎えに来ました』
顔を上げる。
校舎の入り口、逆光の中に、長い黒髪のシルエットが立っていた。
静だ。
彼女はこちらを見ている。
距離があるはずなのに、彼女が僕の手元のスマホ画面――ブロックリストを開いている画面――を、すべて見通しているような気がした。
彼女はゆっくりと手を振り、唇を動かした。
――い ら な い よ ね?
声は聞こえなかった。
でも、僕にははっきりと分かった。
彼女は僕の交友関係を、友達との思い出を、ゴミ掃除だと思っているのだと。
僕は梨花の手を振りほどくこともできず、ただ立ち尽くしていた。
午前3時の呪いは、真昼の太陽の下でも解けることはなかった。
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