8話 『時越想纏(じえつそうてん)』
バイクのエンジンが低く唸り、夜道を切り裂くように走る。
月明かりを反射するメタルレッドのボディ。
飛鳥は赤髪の女が運転するその背中にしがみついていた。
信号が赤に変わる。
赤髪の女は、ブレーキを掛けると、片足で地面を支えた。エンジンの振動が途切れ、夜の静けさが戻る。
「そういや、あんたの名前、まだ聞いてなかったな」
彼女はふと思い出したように肩越しに声をかけた。
「俺は時任 飛鳥です」
ヘルメット越しに答えると、彼女は短く噴き出した。飛鳥は何が面白かったのだろうかと考える。時任も飛鳥もそんなに変わった名前ではない。
信号の灯りが、只ですら赤いバイクを更に赤く染める。
「時……か。時は大事だよな。時は戻せねぇし、支配もできねぇ。あ、私は、焔堂レオナだ。よろしくな」
「焔堂 レオナ……さん」
飛鳥が赤髪の女――レオナの名を繰り返すと信号が青に変わった。
再びエンジンが吠え、風が切り裂かれていく。
飛鳥は轟音に負けないよう声を張った。
「そう言えば……どうしてマホさんの場所が分かったのですか!?」
あの時、誰かと話していた。
痛みをこらえていた所為で言葉の内容までは分からなかったが、誰かと連絡していたのは確かだ。
レオナはバックミラー越しに視線を送る。
「あー、ま、めんどい説明は後だ。全部、終わったら教えてやるよ」
それきり会話は途切れ、風とマシンの轟音が共鳴するように流れていく。
街の灯りが遠のき、黒が増していく。
舗装の剥がれた山道に入るとレオナは速度を落とした。
両脇の木々が、ヘッドライトの光を貪るように揺れる。
そんな道を10分程走ると、ポツリと古びた民家が現れた。
屋根は半ば崩れ、窓ガラスは割れ、蔦が家を覆うようにして絡みついている。
「恐らく、ここにいるんじゃないかって話だ」
レオナはバイクを止め、ヘルメットを脱いだ。
特徴的な赤髪が揺れる。
飛鳥もバイクから降りて、時間から取り残されてしまったかのような家を見上げる。
「ここにマホさんが」
飛鳥の声にレオナが頷いた。
「ああ。いるとは言い切れねぇんだけどな。ま、行くか」
飛鳥は自然と呼吸が荒くなる。
レオナが玄関の扉を押し開けた。「キィー」と乾いた音が響く。
「うっ……」
「この匂いは……」
生ごみが腐ったような、鼻が曲がるような悪臭が流れ出る。足元には食べかけのまま捨てられたカップ麺。呑みかけのペットボトル。メインだけが食べられた弁当が散乱していた。
レオナは顔を顰めながら慎重に足を踏み入れた。
「誰かいた形跡はあるな。しかも最近までな」
レオナは弁当の中身を覗き込んだ。野菜は萎れ、米は乾いているがまだ腐ってはいない。少なくとも一週間前、この家には確実に誰かがいた。
奥へ進むにつれ、空気が淀んでいく。
埃と黴の匂いに混じって、どこか金属のような鉄臭さが鼻をついた。
「……誰かいるな」
一番奥の部屋。閉じられた襖の内側から僅かに音がした。
飛鳥はマホかも知れないと、衝動的に扉を開けた。
「マホさん!」
レオナが慌てて止めようとする。
「待て!」
だが既に遅い。
飛鳥は襖を開いていた。
その瞬間、人工的な纏わりつくような匂いが一気に流れ、腐臭と混じり合う。
不快な甘さを閉じ込めていた部屋。
その隅に――マホがいた。
少しでも何かから隠れようとしているのか、小さな体を更に小さく丸めガタガタと震えていた。
「マホ……さん。大丈夫ですか?」
飛鳥はマホに近づいた。
飛鳥の声に気付いたマホが顔を上げる。
「……ッ!!」
マホの表情に飛鳥は固まる。
瞳孔は開き切り、まるで別の世界でも見ているかのように焦点は合わない。汗に濡れた紙が頬に張り付き、呼吸は浅く早い。
そんな苦しそうな状態なのに――マホは笑った。
助けに来た人間が飛鳥で嬉しい――と、いう笑みではない。
狂いに狂った笑みだった。
「はははは、助けに来てくれたんだ。はは、今、凄く、身体が熱いんだ!」
マホの声はさっきまで一人で震えていたとは思えないほど、溌溂としていた。
ネジが外れたモーターのように不安定だ。
「あれ? 私、あれれれ?」
マホは喋りながら右手の親指を齧る。
爪が剥げ血がにじむ。
それでも痛みを感じないのか、こんどは肉までも噛み千切ろうとする。
「やめてください!!」
飛鳥はマホを止めるように抱きしめる。
だが、それでもマホは止まらない。
「この匂いに……その様子『ムルフィ』か」
レオナが柱を叩き呟く。
「『ムルフィ』……?」
「未来で作られた薬だよ。理性を壊して快感だけを暴走させる。……使用後は感情が壊れちまうんだけどな」
「未来……?」
飛鳥はレオナの言っていることが理解できなかった。
未来で作られた薬?
錯乱状態のマホに、理解できないレオナの言葉。
全てが混線し、飛鳥はただ立ち尽くす。
「なんだ、お前ら」
いつの間に部屋に入って来てたのか、玄関から部屋へと続く通路に一人の男が立っていた。
背は低くマホと同じくらい。
爬虫類のような顔つきで、毛髪は薄く、枯れ草のように垂れている。
マホはその男を見るなり叫び出した。
「薬、薬、ちょうだい!!」
飛鳥を突き飛ばし、這うようにして男へ近寄る。
一週間前のマホからは、想像できない姿だった。
餌を差し出された犬のように舌を出して縋るマホの姿に、飛鳥の脳を怒りが満たす。
脳で絡まっていた全てが弾けた。
「お前、マホさんに何をしたんだ!」
飛鳥が叫び立ち上がる。
マホがこんな姿になったのは、この男の所為だ。
拳が震え、無意識に床を蹴る。
こいつを殴りたい。
だが、飛鳥の拳は男には届かなかった。
「こんなこと……許せねぇよな」
「レオナ……さん」
飛び掛かった飛鳥の肩を抱くようにして、レオナが制止していた。
その赤い瞳から涙を流して。
「『ムルフィ』。人の快感を暴走させる薬だ。だが……使用後の感情の崩壊と中毒性から、未来での使用は禁止されてる」
快楽を貪るだけの人間を創り上げ、奉仕させるために作られた薬物。
マホに与えられたのはそういう薬だった。
レオナは、飛鳥を自身の背に隠すように前に立ち男を睨む。
「けどな、過去での使用は許可されてる。おかしいよなぁ?」
未来の薬を知るレオナに、男の表情が渋くなる。
「なんで薬のこと知ってんだ。お前、まさか未来から……来たのか?」
「質問してんのは私だ。答えろ。過去でのみ使用できるのは異常じゃないのか!?」
人を壊す薬なら、未来も過去も関係なく禁止すべきだ。
だが、実際は違う。
薬は未来での使用が禁止されているのみ。
むしろ、過去の人間への使用は歓迎されていた。
その現状を疑問視するレオナの問いに、男は質問の意味が分からないと笑う。
「何言ってんだお前? てか、人が買った過去に入り込むのは禁止されてんだろ!」
男は法の威を借りレオナを笑う。
法に守られた人間は、法を破った人間の言葉など届かない。
「俺の買った過去で、俺に説教なんて済んじゃねぇよ!」
男は自身の怒りを示すように拳を振り上げた。
「『
瞬間、男の右手が脈打ち爆ぜた。
筋肉が膨張し、景色が捻じれるように揺らいだ。
レオナまでの距離が一瞬で消える。
届くはずのなかった拳は、膨大な質量を持ってレオナに迫る。
「ちっ!」
レオナは飛鳥とマホを抱き寄せると、背中で拳を受けた。
凄まじい風圧が部屋を粉砕し壁ごと吹き飛ばす。
瓦礫の山の中、飛鳥達は倒れていた。
レオナが庇うように覆いかぶさっている。
「レオナ……さん」
「ち、やっぱ『時越想纏』使える奴かよ。いつもなら、大歓迎なんだが――今回ばかりは、ちょっとめんどいなぁ」
レオナは瓦礫を払いのけゆっくりと立ち上がった。
優しい声で飛鳥に言う。
「その子、ちゃんと守ってやれよ」
マホは気を失い穏やかな寝息を立てていた。
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