6話 理論の麻薬で得る安心

「マ、マホさん……」


 何が起きたのか理解が追い付かない。

 だが、白濁とする意識の中でも一つだけ確かなことがあった。

 マホがいない。

 ほんの数分前まで、隣で笑っていた筈の姿は、忽然と消えた。

 路地裏に夜風が戻る。その風はもう心地いいとは感じられなかった。


「は、早く警察に……!」


 すぐ近くに交番があったことを飛鳥は思い出す。壁に手をつき、這うようにして立ち上がった。身体が痛むのも構わず歩き出す。

 路地裏を抜けると、街に僅かに活気が戻っていた。

 飛鳥の体験など嘘だと思える日常の風景。


「あった……!」


 交番から発せられる光は、周囲のネオンよりもずっと淡い光だったが、飛鳥にはそれが、暗闇に差し込んだ唯一の希望に見えた。


「す、すいません。ひ、人が……攫われました!」


 飛鳥は扉を開けると同時に声を張り上げた。中にいた飛鳥よりも若いであろう警察官が顔を上げ、「どうしたんですか?」と立ち上がる。


「す、直ぐ近くで女性が攫われたんです! 早く助けてください!」


 焦るあまり飛鳥は、警察官の胸元を掴んでいた。

 警察官は眉を潜めると、面倒くさそうに質問を重ねた。


「あの、お酒飲んでました?」


 確かに飛鳥はこの数時間、酒を名に宿す場所にいた。

 しかし、飛鳥が呑んだのは最初の一口だけ。

 本人は全く酔っているつもりもなかったが、どうやら、飛鳥の服や髪にはアルコールの匂いが染み付いていたようだ。


「俺は一口しか飲んでません。本当です!」

「そうですか。まあ、取りあえず、まずはアルコールチェックしましょうか」


 警察官はデスクに戻ると、引き出しの中から検査器を取り出し飛鳥に差し出した。

 飛鳥は逸る心を抑えながら息を吹きかけた。

 当然、数値は反応しない。


「あれ、おかしいな。もう一度お願いできる?」


 再検査を求められたが、飛鳥はそれを拒否した。

 機械よりも先に、自分が疑われていることが、飛鳥の胸を冷たく締め付けた。


「いいから、早く助けてください!」


 その声に交番の奥からもう一人、年配の男が顔を覗かせた。

 これまで対応していた警察官が耳打ちすると、年配の警察官がゆっくりと歩み寄ってきた。


「一緒にいた人が攫われたって? お兄さんはその場にいたのかい?」

「はい。俺の目の前で……攫われました」

「そうか。じゃあ、犯人の特徴を教えてくれ。」


 飛鳥は自分が見たままを話した。

 身長は二メートルを超え、路地を塞ぐほどの巨体だったこと。

 人間を一人担いだまま凄い跳躍をしてその場から消えたこと。

 飛鳥が伝え終えると、二人の警察官は目を合わせ、警戒するように距離を取った。


「もしかして、薬とか飲んでないよな? 最近、流行ってるんだよね」


 飛鳥は絶句した。

 自分が伝えた現実が、まるで『虚言』のように扱われている。


「薬なんかじゃない……。あれは本当に……、あったん、です」


 飛鳥の言葉は徐々に弱くなる。

 自身の見た現実が他の人間から告げられたら、飛鳥自身は信じることができるだろうか?

 こんな時でも、冷静に状況を理解している自分に飛鳥は嫌気が指す。

 状況を理解して、冷静に並べる言い訳。

 理論の麻薬で安心を得る。

 飛鳥は交番の壁に凭れ掛かった。

 その夜、飛鳥は警察官の事情聴取に対応していた。

 当然、その日の内にマホが見つかることは無かった。

 飛鳥の耳には、マホの「助けて……!」と叫ぶ声が――いつまでも耳の奥で残響していた。

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