1話 華の金曜日
「今日はマホさん、ログインしているかな?」
静かな部屋に、微かに機械音が響く。
ワイシャツを脱ぎ、ズボンのフックを外す。シャツ一枚になり腹部を緩めただけなのに、まるで空でも飛べるかのような解放感に包まれた。
「いたらいいんだけど……」
オークションで格安購入したゲーミングチェアに腰を下ろす。体臭を誤魔化すために置いた柑橘系ディフューザーが、ふわりと香った。
柑橘系の香りやオレンジ色は人の気分を上げてくれる――とAIは言っていたが、残念ながら今のところ体臭を隠す役割しか果たしていない。
飛鳥は机に置かれたままのコントローラーを握り、フレンドのログイン状態を確認する。
「……いた!」
マホさんのアイコンの横には、オンラインを示す緑色のランプが点灯していた。
飛鳥はコントローラーを置き、緩んだズボンのポケットからスマホを取り出す。トーク画面には広告の通知が溜まっていたが、その上に目当ての人物の名前があった。
『お疲れ様です。よかったら今からイベントやりません?』
返事を待つ間、リュックから夜用に買ってきたポテトチップスと板チョコ、それにコーラを机に並べる。
この三つは、飛鳥にとってゲームをするための三種の神器だ。
返事を待ちがてら、小腹を満たそうとポテチの袋に手を伸ばした瞬間、スマホが震えた。
伸ばしていた手は、そのまま自然にスマホへ向かう。
『いいぞ。というか、お主こそ大丈夫か? 今日は連休前の金曜日だぞ?』
連休前の金曜日だと、何が「大丈夫」なのだろう。
飛鳥は疑問をそのままメッセージに打ち込んだ。
『何故って……サラリーマンというものは、金曜の夜は飲み歩くのだろう?』
金曜日の夜。
街には酒の匂いと人々の陽気が満ち、明るい喧騒に包まれているはずだ。少なくとも、モニターの光と五百円分の菓子に浮かれている者はいないだろう。
マホもそんなイメージを持っているからこそ、飛鳥にそう尋ねてきたのだ。
その感覚が自分と近いことが、なんだか嬉しかった。
『それはすごい偏見ですね』
返信を送り、目的のソフトを起動する。
タイトル画面に切り替わり、重厚なBGMが流れ出した。何度聴いても胸が高鳴る。
中学生の頃から続く、ハンティングアクションの金字塔。
「やっぱり、格好いいな……亜種の姿は」
今日から始まるイベントは、龍型モンスターの希少種討伐。そのモンスターがタイトル画面に映し出されていた。
通常種は燃えるような赤い鱗を持つ龍。
だが亜種は違う。
漆黒の鱗。
その隙間を走るように、紫の閃光が脈打っている。
まるで闇すら食らい尽くしたかのような姿。
全体的にダークな色合いとなったその姿は、厨二心を強く刺激した。
「……って、俺もう二十九歳なんだけど」
あの頃と、感じ方は何も変わっていない。
中学生のまま、時間だけが失われていった。
そう思った瞬間、胸の奥を冷たい指先で締め付けられた。
「何一つ……変わってない」
大人になったつもりでいたが、中身は子供のまま。
周囲の大人たちは、それを見抜いているのかもしれない。
だから仕事を任されない。
人手が足りなくなった時だけ使われる、補欠のような存在。
「そりゃ、金曜日の夜でも俺だけは誘わないよな……」
帰り際、後輩が上司に飲みに誘われている場面を見かけた。
その時は別に何とも思わなかったはずだった。
仕事終わりまで職場の人間と一緒に過ごしたいとも思わないし、好きな食べ物とゲームがあればそれでいい。
――そう、思っていたのに。
「……実は気にしてたのかも」
この会社に勤めて約十年。
上司から飲みに誘われたことは一度もない。
十年もいるのに、立場も信頼も、何一つ変わっていない。
「俺には……何もない」
中学時代から見慣れたタイトルロゴ。
かつては友達と集まり、連日このゲームをプレイしていた。
意味もなく騒ぎ、笑い、夜が明けるまで狩り続けた日々。
今では、その友人たちとも連絡を取っていない。
社会人になりたての頃は何度か集まったが、時が経つにつれ、友人たちは大きな仕事を任され、家庭を持つようになった。
気づけば、自分だけが置き去りだった。
飛鳥は深く息を吐く。
何より苦しいのは、この原因を作ったのが他でもない自分自身だと理解していることだった。
誰かのせいにできる図太さがあれば、どれほど楽だっただろう。
『どうした? やっぱり辞めるのか?』
なかなか始めない飛鳥を、マホが気遣ってくれたのだろう。
画面に浮かぶ短い一文。
顔も本名も知らない。
それでも、自分に向けられた言葉がある。
その事実が、今の飛鳥にとって何よりありがたかった。
「何も背負ってない。昔からの友達もいないけど――」
それでも。
「今、一緒に遊べる人間がいる」
それだけで、少しだけ救われる気がした。
飛鳥はマホと会うため、自身が作り上げた分身を操作し、ファンタジーの世界を駆け出していった。
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