第2話

「ゲート発生から、はや十五年! 政府は何をしている! エルフへのビザ発給を停止しろ!」

 

 学校前に着くと、いつも通りデモ隊がプラカードを掲げて怒鳴り散らしていた。寒いのか、服だけは何枚も重ね着で、その上からブランド物のジャケットまで羽織っている。

 

 それに――揃いも揃って、若い顔がひとつもない。

 

 私はデモ隊へ冷たい視線を投げたまま、校門へ足を向けた。

 

 ――その瞬間。

 

「ほ〜た〜るっ!」

 

 背後から突然、誰かの手が私の目を覆った。心臓が跳ね上がって、全身がびくりと震える。外出なんて、学校以外ほとんどしない陰キャの私にとって、こういう不意打ちの接触は恐怖そのものだった。

 

「……彩音あやね。やめてって言ったよね、それ」

「え〜? だって毎回ほたるがビクッてなるの、超おもしろいんだもん」

 

 振り返ると、顔を赤くして、にやっと笑う女の子。ボーイッシュな短めの髪に、ぱっちり丸い一重の瞳。私の唯一の同性の友だちで、幼なじみ――高井彩音たかいあやねだ。

 私は答えず、ただ睨む。やめてと言っても言っても、三歩歩けば忘れるのが彩音だった。

 

「それでさ、それでさ。昨日言ってた――」

 

 私の気分なんて知ってか知らずか、彩音は言葉を継ぎ足していく。甲高いおしゃべりが耳を刺す。私はその声を背中に流して、校内へ足を踏み入れた。



 

「はぁぁ……だる。エルフ文化論ほんっと嫌い……」

 

 授業が全部終わると、隣の席の彩音が大きく伸びをして、あくびを漏らした。

 

「嫌いなら、なんでこの学部来たの……? ほんと意味わかんない」

「だってほたるがいるもん〜。それに、お金も出るし〜」

 

 私たちの学部は異界文化共生学部。向こうの世界の文化や歴史、共生の制度――そういうものを学ぶ代わりに、学費の補助が手厚い。でも、私がここを選んだ一番の理由は、メルのことをもっと理解したかったからだ。

 

 だからだろうか。隣でのんきに笑っている彩音を見ていると、こめかみの奥がじわじわ痛んでくる。

 

「ていうかさ、見てみて、エルフ石。1億円ってまじー? ほたる、持ってないの? 彼氏からもらってたりして〜?」

 

 彩音はいやらしい妄想でもしているのか、ひひっと笑いながらスマホの画面を私の目の前に突き出した。授業中はぼーっとしてたくせに、あの単語だけは、妙にしっかり覚えているらしい。

 

「見たこともない」

 

 私は鼻で笑って、低く返す。

 

 エルフの第二の心臓――エルフ石。青く揺らめく小さな石で、彼らが長命でいられる理由でもあり、命そのものとされる〈魔力〉の結晶。それを預けることは、生涯の伴侶として認めた証だという。

 

 私なんかとは、関係ないはずなのに。写真で見るだけでも、なぜだか胸の奥をきゅっと掴まれる。

 

「え〜、じゃあさ。ほんとに彼氏、ほたるのこと好きなの? 遊ばれてるんじゃないの〜?」

 

 彩音は机に突っ伏したまま、人差し指をくるくる回して言った。

 

「それもう一回言ったら、絶交」

 

 声が、思ったより冷たく出た。

 

 もちろん、メルが私を弄んでいる可能性だって、ゼロじゃない。こんな、冴えない、金もない、取り柄もない私を――?

 

 そう思えば思うほど、胸の奥がざわつく。

 

 でも彩音の言い方は、どこかメルを嘲っているみたいで、胃の中がねじれるように気持ち悪かった。私の悪口なら、まだ耐えられる。けれど、彼の悪口だけは――誰であろうと許せない。

 

「ひどっ! 友だちより男!?」

 

 彩音がむくれながら、まだ何か言っている。

 

 私はそれを背に、鞄をまとめて立ち上がった。たった一人の友だちが、こんなにも噛み合わないなんて。私、ほんとに友だち運がない。


 

***


 

 家に戻ると、もう午後六時だった。迎えてくれたのは、暗くて、どこか冷たい部屋。その真ん中で、リリ専用のライトだけが淡く灯っている。

 

「……疲れた」

 

 メル、ちゃんと着いたかな――そんなことを思いながら、私は重たい体をベッドに投げ出した。ツーベッドの広い寝台は、ひとりで使うには余白が多すぎて、身体の熱まで薄まっていく気がした。

 

 そのとき、ズボンのポケットが一度だけ震えた。取り出したスマホの画面には、メルからのメッセージ。

 

 胸が勝手に跳ねて、指先が少しだけ急ぐ。

 

『着いた』

 

 いつも短い。感情が滲む余地がないくらい、切り落とされた言葉。本当に私のことが好きなのか、たまに分からなくなる。

 

 落ち着かないまま、メッセージを送る。

 

『写真ほしい』

 

 返事はすぐに来た。

 

『写真』

 

 添付を開く。飛び込んできたのは、どこまでも青々とした森。緑に塗り潰されたみたいな樹々の海。その中に、無表情のまま緑の服を着たメルが立っている。そして隣には、せいぜいに見える女の子が二人。メルの姉たちだ。

 

(エルフって、そんなに緑が好きなの……?)

 

 メルの普段着も、どういうわけか緑が多い。私は緑が、どうにも好きになれない。理由はうまく言えないのに、胸の奥がざわつく色だ。

 

 私はもう一度、打った。

 

『笑ってるのも見たい』

 

 メルが笑うと、いちばん格好いい。なのに、その笑顔は一年に一回見られるかどうか――そんな希少品みたいなものだった。

 

『嫌』

『なんで?』

『恥ずかしい』

 

 揚げ物を十皿も詰め込んだみたいに、胃のあたりが重くて息が詰まる。好きな人の前なら、笑いたくなるのが普通じゃないの? 私は顔を見るだけで、勝手に口元がゆるむのに。

 

 その瞬間、今日彩音が言った言葉が、耳の奥で嫌な回り方をした。

 

 はぁ、と息が落ちる。

 

 そういえば、メルが昔、日本に来た理由を話してくれたことがある。

 

 ゲートが発生して間もない頃、幼いメルが日本に流れ着いたとき――助けてくれた短髪の少女に、恩返しがしたいんだ、と。

 

 その子が誰なのかは知らない。でも、もし見つかったら――メルは私を置いて、そっちへ行ってしまうんじゃないか。そんな想像が、蛇みたいにじわじわと私の喉を締めつけてくる。

 

 私は噛みしめるように、文を並べた。

 

『わかった。私は疲れたから先に寝るね。おやすみ。愛してる。明日は、笑ってる写真送ってね』

 

 画面に〈送信〉が表示される。口調だけは平気なふりをして、私はスマホを伏せた。

 

 明日の朝は、父の見舞いがあるのに、今夜は簡単には眠れそうにない。

 

 ベッドの上に置いてある、メルと初めて会ったときに――なぜか渡されたラグビーボールほどのウィスピリーフのぬいぐるみを、ぎゅっと抱きしめる。それだけで、胸のざわめきがほんの少しだけ遠のいた気がした。

 

 まるでぬいぐるみまで私を憐れんでいるみたいに、淡い青緑の光が、かすかに揺れた――そんな気さえする。

 

 そうして意識は、少しずつ、少しずつ、薄くなっていった。


 

***


 

 ぶうう……ぶうう……

 

「ん……」

 

 しつこい振動音に、今にも閉じそうだったまぶたを無理やり持ち上げる。暗い部屋の中で、スマホの画面だけが白く光って、目の奥を刺した。

 

 朦朧としたままスマホを確認して――息が止まる。弟のはるからの不在着信が、十七件。

 

 その瞬間、眠気が背骨から引き剝がされた。ぞくり、と背中に冷たいものが走る。

 

(まさか――)

 

 私は跳ね起き、震える指で画面を叩く。通話ボタンは何度もすり抜けて、ガラスの上で指先だけが空回りし、ようやく発信した。

 

 一秒が、やけに長い。

 

 カチ、コチ、カチ、コチ――普段なら気にも留めない壁時計の秒針の音まで、やけに大きく耳の奥で鳴り響く。

 

 呼び出し音が、永遠みたいに続いて――

 

「姉ちゃん……っ」

 

 繋がった途端、陽の声が泣き崩れる。

 

「陽? 陽、どうしたの……?」

 

 問いかけても、返ってくるのはしゃくりあげる呼吸音だけ。

 

 それでもスマホの向こうから、途切れ途切れの声が続く。嗚咽に濡れた、意味を成さない掠れ声。 その湿った粒子の一つひとつが、鼓膜の上を這いずり回るように鮮明に響いた。

 

 視界がぐらりと揺れ、私はベッドの端にどさりと座り込んだ。頭の中が真っ白になって、百メートル全力疾走したみたいに、胸がひゅうひゅう鳴る。

 

 ――父の心臓が止まった。

 

 止まったって、それはもう……でも、映画みたいに、電気を当てて戻ったりしないの? 先月、手術はうまくいったって言ってたのに。どうして? なぜ?

 

 考えが絡まって、頭の中で空回りする。それでも、ひとつだけ確かなことがあった。

 

 ――今すぐ、病院へ行かなきゃ。

 

 パジャマの上にジャンパーを引っかける。けれど手が震えて、ファスナーが上がらない。息を吸うだけで苦しい。頭がじんじん疼いて、吐き気が喉元までせり上がってくる。

 

 それでも無理やり気を奮い立たせて、私は外へ飛び出した。

 

 タクシーを呼ぶべきか一瞬迷って――結局、自転車にまたがり、夢中でペダルを踏んだ。

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