エルフの心臓が欲しい
うめ紫蘇
第1話
十二月二十日・クリスマス――冬の骨まで沁みる風が、容赦なく頬を叩いた。
空からは、綿菓子みたいにふわふわした雪が、はらはらと舞い落ちてくる。
靴下も履いていない素足は、まるで麻酔を打たれたみたいに感覚が薄くて、もう自分の足じゃない気がする。そんな無慈悲な寒さと対照的に、眼下の街は――色とりどりの建物が、いくつもの灯りを軽やかに散らしていた。
きらきら、と。まるで〈ここだけは暖かい〉と言わんばかりに。
私はぼんやり立ち尽くしたまま、足元を見下ろす。五階建てのマンション、その階段の手すりの上。そこまでの高さじゃないはずなのに。今日はなぜか、高層ビルの屋上にでも立っているみたいに、やけに遠くて高く見える。
(ここから落ちたら、終わるのかな。終わったら……どうなるんだろう。お母さんと、お父さんに、会える? でも地獄にだけは行きたくないな……)
何度も覚悟はしてきたはずなのに、雑念はしぶとく絡みついてくる。頭の中を、爪でかき回されるみたいに。
そして、ふいに脳裏を横切る、彼の姿。それが何百キロもの砂袋みたいに、私の脚を、心を――ずしりと押さえつけた。
「……もう、疲れた」
生きることに意味なんて見いだせない。何も考えなくていい場所へ、ただ逃げたい。
だからこそ、両手に抱えた――ラグビーボールほどの大きさで、淡い緑の光をほのかに放つウィスピリーフのぬいぐるみを、ぎゅっと握りしめ、もう一度だけ心に誓った。
私は、今日――すべてを終わらせる。
***
――二〇XX年十二月十七日 東京都
ぼこ、ぼこ……
鼻先をほんのり温める香ばしさ。けれど、どこか湿った魚の気配が混じる匂い。
脂ののった鯖が焼けていく匂いは、不思議だ。皮がぱちぱちと弾けるたび、香ばしさが立ち上がるのに、奥のほうにほんの少しだけ――金属みたいな、生っぽい癖も残る。それが嫌で、なのに、なぜか落ち着く。
料理を仕上げて皿にきれいに盛りつけ、茹でたブロッコリーを数房添える。
キッチンにかかったカーテンをさっと引いて、私は部屋へ戻った。
朝の光の中、小さな埃が踊るようにふわりふわりと漂っている。その下で、私の彼は、まだベッドに横たわったまま眠っていた。
「メル! ほら、起きて。朝ごはん食べなきゃ」
メル――エレンディル・メネル。私の恋人で、そして、陰気で友だちが少ない、私のベストフレンド。
「ん……先に、洗わなきゃ……」
寝ぼけた声で、彼は上体を起こし、目をこすった。夏の浜辺の砂みたいに淡い金髪は、寝起きでもやけにさらさらで、どこか古風な気配すらまとっている。長い睫毛の間から揺れる青い瞳。整った顔立ち。エルフ特有の長い耳。
何年見ても、胸がきゅっと鳴る。だけど――大切だからこそ、余計に心配になる。
私は立ち上がろうとする彼の手首をつかんで、引き留めた。
「朝ごはん……食べて? どうせ洗ったらすぐ出るんでしょ? もう九時だよ」
「え……でも、飛行機は午後一時だよ? 洗ってから食べるから」
確かにまだ時間はある。でも、朝ごはんは朝ごはんだ。私がどれだけ頑張って用意したと思ってるの。
じとっと目を細めて見上げると、メルは観念したみたいに肩を落として座り、箸を取った。……取った、のに。皿の鯖を箸でつついて、裏返して、またつついている。
「魚……好きじゃない」
「はいはい。鯖は喉にいいんだって。ほら、骨は私が取るから。早く」
私が身をほぐして骨を取り分けると、ようやく食べ始めた。外見は完璧で、背も高くて頭もいいのに――こういうところだけ子どもみたいだ。だから、もっと可愛い。それに、こういう時だけは、私が年上なんだって実感できて、ちょっと気分がいい。
朝食を終え、彼が支度を済ませる頃には、私も玄関まで見送りに出ていた。
今日は久しぶりに、メルが
「じゃあ、行ってくるね。リリ、ちゃんと面倒見てあげてね」
小さな旅行鞄を片手に、メルがドアノブへ手をかける。扉が開いた瞬間、冷気が殴りかかるように流れ込んできた。
「ちょ、待って、マフラーは? その格好で出る気?」
「大丈夫。全然寒くない」
緑のニットに黒いジーンズ、茶色いコート一枚。氷点下の空気の中では、どう見ても薄い。しかもメルは元々、体が丈夫じゃない。すぐ咳をするくせに、無防備すぎて頭が痛くなる。
「ほんと、ただでさえ感染症が流行ってるのに……ここでちょっと待ってて」
私は部屋へ駆け戻り、昔メルに買ってあげた
ようやく外へ出る人の姿になった。
「……じゃあ、ほんとに行くね」
相変わらず表情の薄い声。
「うん。気をつけて。絶対、連絡してね」
「……うん。行ってくる、ほたる、薬忘れずにね」
「はいはい」
扉が閉まり、外の寒さも、彼の気配も、ぱたりと遮断された。ゆっくり視線を落とすと、いつもそこにあるはずのメルの靴が――もう、ない。本当なら少しは温まってもいいはずなのに、胸の奥だけが、かえっていっそう冷えていく気がした。
「リリち~ 餌だよ~」
「リリッ! リリッ!」
透明なプラスチックの餌入れに、赤茶色の粒をたっぷり入れて近づけると、リリは腹ぺこらしく鳥かごの壁に貼りついて鳴いた。サイズだけ見れば、私の拳より小さいくらいなのに。食べっぷりだけは、犬でも飼ってるのかってくらい豪快だ。
メルが一昨年連れてきた、ウィスピリーフのリリち。青い若葉みたいな羽を持つ、向こうの世界の小鳥。少しだけ潮っぽいのに、なぜか癖になる草の匂いがする。たまに私の言葉を覚えて真似するのが、可愛くてたまらない。
……問題は、覚えなくていい言葉まで覚えてしまうことだけど。
餌を用意し終えると、リリが寒くないように、私が子どもの頃に着ていた緑色の服を使って、隙間ができないよう鳥かごをぐるりと覆った。
「ふふ……完璧」
万全の冬対策ができた鳥かごを見て小さくつぶやき、私は登校の支度をするため、手鏡の前に座った。
「……」
目の下にコンシーラーを重ね、アイロンを当てた前髪を指で押さえつける。
鏡の中では、くせ毛だけがしつこく跳ね、塗り重ねた肌は粉っぽく重たく見えた。浮いたほくろは、むしろ灰色がかって鈍く目立ってしまう。二重テープは端からじわりと浮き、目つきだけが妙に鋭く尖って見えた。試しにコートを
――髪まで派手に伸ばしていないと、たぶん私は、そのまま子どもにしか見えない。
暗闇の中でもきれいに光るように、と両親がつけてくれた名前。佐々木ほたる。でも私は、名前みたいに光るどころか、暗闇の中の暗闇そのものみたいだ。
「……はぁ」
準備を終え、いつものように気力のないまま、私も玄関を出た。学校が終わって家に帰っても、そこにメルがいない。その事実だけで、もう、胸が沈み始めていた。
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