しおりに挟んだ恋~どの本をご希望ですか?~
かわまる
第1話 「プロローグ 〜どの本をご希望ですか?〜」
ここは緩波若(かんぱにゃ)市。
都心からは遠く離れ、山と海に囲まれたこの地方都市には、目立った観光資源もなければ、大型のショッピングモールも存在しない。
ベッドタウンとしての発展もなく、訪れる人より、去る人の方が多い――そんな町だ。
けれども、四季の移ろいがはっきりとしていて、春には山桜が咲き誇り、夏には蝉の声が山間に響く。
秋の稲穂が風に揺れる頃には、空がどこまでも高く、冬の朝には霜が降りて、山から吹き下ろす風が身を切るように冷たい。
この町の中心部、市役所のすぐ隣に、「市立緩波若図書館」は建っていた。
真新しいとは言えない建物だが、古びた味わいがあり、時間がゆっくりと流れるような静謐さがあった。
大都市の近代的な図書館と比べると規模は控えめだが、通う人々にとっては、大きさよりも心地よさが重要だった。
図書館の大きな窓からは、緩波若山の稜線が望める。
その優しいカーブは、町の輪郭を描くように広がり、青空を背景に、時には雲がふわりと流れていく。
季節風が山を越えて吹き下ろし、図書館の外に植えられたポプラの葉をさらさらと揺らしていた。
この図書館には、今日も静かに一人の女性司書が勤めていた。
名を、綴 詩織(つづり しおり)という。
彼女は、図書館に勤める4人の司書のうちの一人であり、勤続半年になる。
身長は小柄で、姿勢はやや猫背。黒ぶちの眼鏡の奥の瞳は深い静けさを湛え、短めのボブヘアが頬にかかると、彼女はそれをそっと指で耳にかけた。
普段の彼女の声を聞いたことがある人は少ない。とにかく、静かで、物音ひとつ立てないように歩くその姿は、まるで館内の空気と溶け合っているようだった。
だがその静けさの裏には、深い孤独の影があった――
詩織が幼いころ、両親は事故でこの世を去った。
煽り運転による悲劇だった。
父が運転する車を、後方から追ってきた車が何度も蛇行し、煽り、挑発するように前に出てはブレーキを踏む。
父は冷静にハンドルを握ろうとしたが、そのストレスと恐怖が、ついには判断を誤らせた。
ガードレールに激突――助手席にいた母と運転席の父は、即死。
詩織は後部座席で眠っていたため、奇跡的に軽傷で済んだが、その日を境に、世界から家族の温もりが消えた。
彼女は、天涯孤独となり、孤児院で育つこととなった。
事故の記憶は、夢となって何度も繰り返し詩織を襲った。
蛇行する車。点滅するテールランプ。怒気を孕んだ運転手のぼんやりとした顔――
何度目覚めても、胸の奥のざわめきは消えなかった。
孤児院でも学校でも、詩織は「誰か」と心を通わせることができなかった。
家庭というものがどういうものなのか、彼女には想像しかできなかった。
親から叱られたり、褒められたり、兄弟喧嘩をしたり、一緒にゲームをしたり――
友人たちが当たり前に話す日常は、詩織にとってはファンタジーのようだった。
だからこそ、彼女が唯一、心を許せたのは「本」だった。
孤児院の小さな本棚に並ぶ児童書から、やがて学校図書館、地域図書館の蔵書へと、詩織の読書生活はどんどん広がっていった。
一冊一冊が、詩織にとっては「家族」だった。ページをめくるたびに、登場人物が彼女に語りかけ、寄り添い、世界を教えてくれた。
高校まで学業は常に優秀だったが、詩織に話しかける生徒はほとんどいなかった。
いじめられていたわけではない・・・彼女の存在が・・・あまりにも希薄だったのだ・・・
大学卒業後、詩織は迷いなくこの町に戻り、図書館の司書としての職を得た。
――この場所なら、誰も彼女を責めないし、無理に会話を求められることもない。
そう信じていた。
*
「綴さん!」
ふいに館長・奥山御園(おくやま みその)の声が、館内に響いた。
「隣町の図書館からの寄贈本がもうすぐ届くから、配列お願いね」
「はい……わかりました」
か細い声が詩織の唇から零れ落ちる。だが、奥山館長は顔をしかめた。
「綴さん? もう少し元気にしゃべってくれる? 聞き取りにくいわよ!」
その声に被せるように、主任の片山香織(かたやま かおり)がそっと声をかける。
「館長さん、そんな言い方なさらなくても……詩織さん、ありがとうね。お願いね」
「ありがとうございます……平気ですから……」
詩織は小さく頭を下げ、配列作業に向かった。
彼女の背を見送りながら、山形忍(やまがた しのぶ)がぽつりとつぶやく。
「……詩織ちゃん、ここに来て半年になるのに、まだうちらに心を開かないよね」
「人それぞれ、抱えているものがあるのよ。誰にも言えないことが……」
香織は、どこか遠くを見つめるように言った。
*
トラックが到着し、段ボールに詰まった書籍たちが次々と運び込まれる。
分類票を確認しながら、詩織は無言で、しかし迷いなく棚を選んでいく。
文学、エッセイ、郷土史、育児、料理、旅行記――
彼女の頭の中には、この図書館のレイアウトが、まるで自分の家のように記憶されていた。
気がつけば、彼女はこの図書館に、小学生のころから通い続けている。
誰よりも、この建物を知っている自信があった。
その日も、年配の利用者が声をかけてきた。
「すみません、この作家さんの続編って……」
詩織はふと笑みを浮かべた。
「はい、どの本をご希望ですか?」
その言葉が、詩織の日々のすべてを物語っていた。
*
閉館のアナウンスが流れる。
詩織は最後の返却本を元に戻し、掃除用具をしまうと、静かに図書館を後にした。
帰り道、町を包む夕日は、夏の名残を照らしていた。
商店街で果物と野菜を買い、古本屋に立ち寄り、やがてたどり着いたのは――
昭和の風情が残る木造アパート、「蛍荘」。
その2階の角部屋が、詩織の住まいだった。
六畳一間、畳敷き。家具は最小限。
けれど、どこもかしこも綺麗に掃除されており、清潔感があった。
着替えを終えると、エプロンをつけ、簡単な夕食を作る。
ご飯、味噌汁、焼き魚と煮物。
特別なものは何もない。だけど、それが詩織の日常だった。
食後は入浴し、温かいレモンティーを啜る。
そして机に向かい、パソコンを立ち上げる。
彼女は、小説を書いていた。
登場人物に、言葉を与え、心を与え、物語を紡ぐ。
それは、彼女の中で決して語られなかった「もしも」を、生きさせる行為だった。
夜が更けるころ、詩織はようやく布団に潜り込んだ。
ふと、窓の外で、雨の音が聞こえる。
ぽつ、ぽつ――
やがて、しとしとと、静かに降り続ける。
それはまるで、彼女の寂しさを包み込むような音だった。
――そして、静かな夜が更けていく。
(つづく)
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