第3話 谷を出る日
旅立ちの朝、アイリス山脈の谷はいつもより静かだった。
霧は薄く、風も穏やかで、まるで世界がフェルトの決断を見守っているかのようだった。
「……ほんとに行くんだね」
リーリスはそう言いながら、フェルトの
離すまいとしているのか、ただの癖なのか、フェルトには分からない。
「うん。たぶん……長くなる」
「たぶんじゃなくて、ちゃんと帰ってきて」
むっとした顔。
すぐに後悔したように視線を伏せて、小さく付け加える。
「……待つの、慣れてないから」
フェルトは思わず笑ってしまった。
「リーリスは、村を離れなくていいの?」
「うん」
即答だった。
「誰かがここにいないとでしょ。
この村、魔力も空気も、すぐ荒れるから」
彼女は谷を見渡す。
割れた大地。
神話級魔術の爪痕が、何百年経っても残る場所。
「フェルトがいない間は、私が……その、少しだけ頑張る」
そう言って笑うリーリスは、やっぱり可愛くて、少し頼りなかった。
帝都魔術師たちは準備を整え、既に村の外で待っている。
中位以上の魔術師に囲まれたその光景は、フェルトにとって現実感がなかった。
「帝都ではさ」
フェルトが言う。
「たぶん、僕はずっと“おかしい”って言われると思う」
「知ってる」
「怒られるかもしれない」
「それも知ってる」
「……危ないこともある」
リーリスは少し考えてから、にこっと笑った。
「でもフェルトは、ちゃんと生きて帰る」
「どうして?」
「だって」
彼女は一歩近づいて、声を潜める。
「私の声、ちゃんと覚えてるでしょ」
胸が、きゅっと鳴った。
「おかしくなりそうになったら、思い出して。
怒られたら、思い出して。
それでも怖かったら……呼んで」
届かないはずなのに。
それでも彼女は、当然のように言う。
「フェルトの魔術、ちゃんと繋がるから」
その言葉に、フェルトは何も返せなかった。
出発の合図がかかる。
振り返ると、村人たちが遠くから手を振っていた。
谷を出る道は、狭く、急で、空がやけに遠い。
「……ねえフェルト」
歩き出す直前、リーリスが呼ぶ。
「帝都で、神話級魔術師アイリスの話、聞いたらさ」
「うん」
「怖がりすぎないでね」
不思議な言い方だった。
「だって……この谷、怖いだけの場所じゃないから」
フェルトは最後に、谷底を見下ろした。
――昔、村の長老が語っていた話を思い出す。
空は裂け、地は鳴き、世界が終わると思われたとき。
神話級魔術師アイリスは、迷いなく第七階位魔術を放った。
山脈は割れ、天魔は消え、世界は救われた。
その代わりに――
この谷が、残った。
「傷は……残るんだな」
誰にも聞こえない声で、フェルトは呟いた。
傷の底で生まれ、傷の中で育った自分が、
これから何を繋ぎ、何を変えるのか。
まだ分からない。
だが、背中には――
透き通る声の記憶があった。
フェルトは一歩、谷の外へ踏み出した。
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