第9話 ブラックカードと漬物石
箱根旅行から戻った翌日。 私の日常は、相変わらず平和そのものだった。 会社はホワイト企業のままだし、朝の通勤電車は相変わらずモーゼの十戒状態だ。
「ただいまー」 「お帰りなさい、あなた」
夕方、帰宅すると、妻の恵子が困った顔で玄関に立っていた。
「どうしたんだ?」
「それがね、変な郵便物が届いているのよ。差出人の名前がないんだけど……」
恵子が指差したのは、リビングのテーブルに置かれた二つの物体だ。 一つは、黒塗りの重厚な封筒。 もう一つは、木箱に入ったズシリと重い置物だ。
「なんだこれ? ダイレクトメールか?」
私は首をかしげながら、まずは黒い封筒を手に取った。 封を開けると、中から出てきたのは一枚のカードだった。
「……クレジットカード?」
それは、プラスチックではない。金属製だ。ひんやりと冷たく、ずっしりと重い。 色は漆黒。表面には『AMERICAN EXPRESS』の文字と、騎士のような横顔が刻まれている。 そしてカード番号の下には、『KENJI SATO』と私の名前が刻印されていた。
同封されていた手紙には、英語で何やら書かれている。
『親愛なるサトウへ。これは友好の証だ。限度額は存在しない。好きなだけ使ってくれ。――友人Mより』
「ははん、なるほど」
私は鼻で笑った。
「これ、最近流行りの『送りつけ詐欺』だな?」
「えっ、詐欺なの?」
「ああ。勝手にカードを送りつけて、使ったら法外な年会費を請求するやつだよ。もしくは、これを使おうとして電話したら個人情報を抜かれるフィッシング詐欺だ」
私は自信満々に断言した。 だって、ありえないだろう。 こんな重厚なブラックカードが、しがない係長の私に届くわけがない。
しかも「限度額なし」だって? 子ども騙しもいいところだ。
「まったく、最近の詐欺集団は手が込んでるなぁ。金属製にするなんて、原価かかってるだろうに」
私は呆れながら、カードをテーブルに放り投げた。
「じゃあ、こっちの箱は?」
次に、木箱を開けてみる。 中に入っていたのは、黄金に輝く「パンダの像」だった。 大きさはソフトボールくらいだが、異常に重い。
「うわ、趣味わるっ」
私は思わず顔をしかめた。 金色のパンダ。成金趣味全開だ。
手紙には『パンダは平和の象徴アル。これを愛でて、我々と仲良くするヨロシ。――友人Wより』と、怪しい日本語で書かれている。
「これ、金メッキだよな? いや、この重さは……中身は鉛か?」
「あら、でも可愛い顔してるわよ?」
「いやいや、騙されちゃダメだ恵子。これを玄関に飾ったら、次は『開運の壺』とか『幸せの数珠』を売りつけに来るに決まってる」
私はため息をついた。 個人情報が漏れているのだろうか。変なDMばかり届いて迷惑この上ない。
「……そうだ」
私は名案を思いついた。 キッチンへ行き、冷蔵庫から「ぬか床」の容器を取り出す。
「ちょうどよかった。ぬか漬けの『重石(おもし)』を探してたんだよ。このパンダ、鉛が入ってるなら重さが丁度いいや」
「あら、いいわね。形も丸っこくて沈みやすそう」
私は黄金のパンダ(実は純金製・時価数千万円)を、ぬか床の上にセットした。
「よし。じゃあ、グッと押し込むぞ」
私はパンダの頭に掌を当て、体重をかけて押し込んだ。 冷蔵庫から出したばかりのぬか床は、冷たくて、独特の発酵臭がする。
「うっ、冷たいな……それに、手に匂いがつきそうだ」
ズブブブブ……。 私の手がぬか味噌に埋まっていく。 指先がかじかむような冷たさと、鼻をつく酸っぱい匂い。 まあ、美味しい漬物のためだ。我慢しよう。
「よし。これで美味しいキュウリが漬かるぞ」
これで一件落着だ。 あとは、この詐欺カードの処分だが……。
「こんな危険なもの、そのまま捨てたら誰かに悪用されるかもしれないな」
私は引き出しから、キッチンバサミを取り出した。 金属製だが、このハサミなら切れるだろう。
「ICチップの部分を破壊して、と……」
私はハサミの刃を、ブラックカード(チタン製)の中央に当てた。 硬い。さすがは金属だ。 だが、私も日曜大工で鍛えた握力がある。
「ふんぬっ!!」
私は渾身の力を込めて、ハサミを握りしめた。 指の肉がハサミの持ち手に食い込む。
「い、痛っ……!」
硬すぎる。 親指の付け根に、強い圧迫感と痛みが走る。 骨がきしむような感覚だ。 それでも私は負けじと力を込めた。
「くそっ、負けるか……! 切れろぉぉぉっ!!」
バキンッ!!
鈍い音と共に、ブラックカードは見事に真っ二つに切断された。
「……ふぅ。指がちぎれるかと思った」
私はジンジンする親指をさすりながら、切断されたカードをゴミ箱にポイと捨てた。 これで我が家のセキュリティは万全だ。
***
同時刻。 ホワイトハウス、大統領執務室。
アーサー・マクガイア大統領は、上機嫌でバーボンを傾けていた。
「ふふふ。今頃、ミスター・サトウは私の贈ったカードに腰を抜かしているだろう」
国家予算並みの限度額を設定した、世界最強のクレジットカード。 あれを使えば、家でも車でも島でも買える。 資本主義の力を見せつければ、しがないサラリーマンなどイチコロだ。
「さあ、何を買う? 高級車か? それとも豪邸か? 好きなだけ欲望を解放するがいい……ぐっ!?」
突如、マクガイアの表情が凍りついた。
ミチチチチッ……!
「ぎゃあああああああああああああっ!!?」
マクガイアは絶叫し、その場にうずくまった。 右手の親指に、信じられないほどの激痛が走ったのだ。 まるで、巨大な油圧プレス機で、ゆっくりと指を押し潰されているような感覚。
「ゆ、指がッ!? 私の親指が潰れるぅぅぅッ!!」
「だ、大統領!?」
「痛い! 骨が砕ける! 誰だ、私の指を万力で締め上げているのはぁぁぁッ!!」
マクガイアは涙目で指を押さえてのたうち回る。 実際には指は無事だ。赤くすらなっていない。 だが、佐藤が感じた「ハサミの持ち手が食い込む痛み」が、数百倍に増幅されて彼を襲っていたのだ。
「はぁ、はぁ……な、何が起きた!? サトウか!? あいつ、私が贈ったカードを……まさか指力だけでへし折ったのか!?」
マクガイアは戦慄した。 なんて握力だ。ゴリラか? いや、それ以上のモンスターか?
***
一方、北京。中南海。
王主席は、優雅に中国茶を啜っていた。
「ククク。マクガイアめ、金で釣ろうなど浅はかな。 私が贈ったパンダ像こそ、至高の芸術品。 あれを床の間に飾り、毎日撫で回すことで、彼は私への愛着を……」
その時だった。
ゾクゥッ……!
「……ん?」
王の全身を、猛烈な悪寒が襲った。 骨の髄まで凍りつくような、絶対零度の冷気。 そして、鼻の奥に突き刺さる、強烈な刺激臭。
「ぶっ!? ぐぇっ!?」
王は茶を吹き出し、激しく咳き込んだ。
「さ、寒い! なんだこの寒さは!? それに……く、臭い! 腐った泥の匂いがするぞ!?」
王はガタガタと震え出した。 感覚だけではない。 まるで、自分の顔面が冷たくてドロドロした粘土の中に押し込まれているような、窒息感と不快感。
「た、助けてくれ! 私は埋められているのか!? 生き埋めにされているのか!?」
「主席! どうされました!? 室温は適正ですが!」
「違う! 佐藤だ……! あの男、私が贈った像を……どこか寒くて臭い場所に沈めやがったな!?」
王は吐き気をこらえながら、屈辱に震えた。 中華の威信をかけた贈り物が、汚物か何かに沈められたのだ。 しかも、その時の佐藤の「冷たい」「臭い」という不快感が、自分にダイレクトにフィードバックされている。
「おのれ……日本男児……! 金も、名誉も通じぬとは……なんと恐ろしい男だ……!」
***
そして、日本。首相官邸。
五十嵐総理のもとに、内調から報告が入った。
『総理! 朗報です! 佐藤様は、アメリカからのカードを切断! 中国からの金塊を漬物石にされました! 両国の懐柔工作は、佐藤様の「鉄壁の庶民感覚(防衛力)」によって完全に無効化されました!』
「ぶはははは! 見たか世界!」
五十嵐は机を叩いて大爆笑した。
「そうだ、それでこそ我らが神だ! 金や宝石など、彼にとってはゴミ同然! 彼が求めているのは、『平穏な日常』と『美味しいぬか漬け』だけなのだよ!」
五十嵐は勝利を確信した。 だが、彼はまだ気づいていなかった。 懐柔に失敗した二大国が、次なる手段――「実力行使(拉致)」に舵を切ろうとしていることを。
***
一方、そんな世界を揺るがす陰謀など、露ほども知らない佐藤は――。
「ふふふ~ん♪」
キッチンで念入りに手を洗い、鼻歌交じりで寝室へ向かっていた。
手に残った微かなぬかの匂いをクンクンと嗅ぐ。 うん、いい匂いだ。これなら味も期待できる。
「明日の朝には、美味しいキュウリが食べられそうだ」
私は幸せな気分で布団に潜り込み、電気を消した。
その平和な寝息が、明日には世界の軍事バランスを崩壊させる引き金になることなど、夢にも思わずに。
***
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