第4話 通勤電車と、空腹の閣議決定

 会社が劇的にホワイト化してから数日。 私の生活は一変した。 以前のような胃の痛みはなくなり、毎朝の目覚めもスッキリしている。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい、あなた」


 妻の恵子に見送られ、私は意気揚々と家を出た。 以前は憂鬱でたまらなかった通勤路も、今ではピクニック気分だ。


 最寄駅のホームに立つ。 時刻は午前七時半。通勤ラッシュのピークだ。 ホームは人で溢れかえり、殺伐とした空気が漂っている。 以前の私なら、この人波に揉まれて会社に着く頃にはスーツがヨレヨレになっていたものだ。


「お、電車が来たな」


 満員電車が滑り込んでくる。 ドアが開くと同時に、タックル合戦が始まる――はずだった。


「……ん?」


 私が乗り込もうとすると、不思議なことが起きた。 まるでモーゼの十戒のように、目の前の人波がサーッと左右に割れたのだ。


「どうぞ」

「あ、どうも」


 私は狐につままれた気分で、ポッカリと空いたスペースに足を踏み入れた。 そこは、私の周り半径50センチだけ誰もいない、聖域サンクチュアリのような空間だった。 つり革も一つだけ空いている。


(なんだろう。私の加齢臭がきついのか? いや、昨日はちゃんと風呂に入ったし……)


 少し不安になって周囲を見渡すと、私の周りを固めている数人の男性たちが目に入った。 全員、彫刻のように無表情で、微動だにしない。 彼らが無言の圧力を発しているおかげで、誰も私に近寄れないようだ。


(偶然……だよな? たまたま怖い人たちが周りにいるだけか)


 私はとばっちりを受けないよう、小さくなってスマホでニュースをチェックし始めた。 今日はツイてるんだかツイてないんだか、よく分からないなぁ。


 ***


 その頃。 佐藤の周囲を固める男たちのインカムには、緊迫した音声が飛び交っていた。


『こちら公安・班長。現在、佐藤様は乗車中。周囲の状況は?』


『こちら鬼島組・特攻隊長。一般客の圧力を完全にブロックしています。佐藤様の半径50センチは「無菌室」です』


『了解。揺れによる接触も許すな。佐藤様が足を踏まれたら、その瞬間に総理が国会で絶叫することになるぞ』


『へい! 命に代えても靴一足汚させません!』


 彼らは「国家権力」と「裏社会」という、本来なら相容れない組織の混成チームだ。 だが今は、「佐藤健二を守る」という一点において、彼らは最強のタッグを組んでいた。


 この満員電車は、彼らにとって「VIP護送任務」という名の戦場なのだ。


 ***


 正午。 スマイルフーズのオフィス。


「ふぅ、午前の仕事はここまでか」


 私はパソコンを閉じて伸びをした。 定時退社が義務付けられてから、業務効率も上がった気がする。 ただ、今日は朝ごはんが少し軽めだったせいか、お腹が空いてたまらない。


「うぅ……腹減ったなぁ……」


 お腹の虫がグゥ~と鳴る。 強烈な空腹感だ。 頭の中は、これから食べる「ロースカツ定食」のことでいっぱいだった。 サクサクの衣、溢れる肉汁、大盛りのご飯……。


「よし、今日はご飯大盛りにしよう」


 私はヨダレを拭いながら、社員食堂へと向かった。


 ***


 同時刻。 首相官邸、閣議室。


 五十嵐総理は、重要法案についての閣議を主宰していた。 深刻な顔で議論を交わす大臣たち。 その最中、五十嵐の表情が急変した。


「……ッ!?」


 突然、目の前が暗くなるほどの「飢餓感」が襲ってきたのだ。 ただの空腹ではない。 まるで三日間、水も食料も与えられずに砂漠を彷徨ったかのような、生命の危機を感じるほどの空腹。


(な、なんだこの飢えは……!? さっき朝食を食べたばかりだぞ!?)


 胃袋がブラックホールになったかのように、内側から激しく収縮する。 思考回路が「メシ……メシをくれ……」という原始的な欲求に塗り潰されていく。 目の前の防衛大臣の顔が、巨大なメンチカツに見えてきた。


「そ、総理? どうされました?」


「……カツ……」


「は?」


「カツ丼を持ってこぉぉぉい!!!」


 五十嵐はテーブルを叩いて絶叫した。


「今すぐだ!! 特盛のカツ丼だ!! あと味噌汁も!!」


「そ、総理がご乱心だー!?」


「いや、これはもしや『リンク』か!?」


 側近たちが慌てて走り回る。 数分後、官邸の料理人が緊急招集され、最高級豚肉を使ったカツ丼が運び込まれた。 五十嵐はそれを野獣のような勢いで貪り食い、ようやく人心地ついた。


「……ふぅ。生き返った……」


「総理、一体何が……」


「佐藤様だ……。あの方が今、昼食をとられたのだ……」


 五十嵐は空になった丼を見つめ、脂ぎった口元を拭った。 佐藤の「ちょっと腹減ったな」は、VIPたちにとっては「餓死寸前の飢え」となる。


 痛みだけではない。あらゆる生理現象が増幅されるのだ。 これはこれで、拷問に近い。


「……全省庁に伝達。佐藤様の昼食時間は、重要会議を入れてはならない。いいね?」


 ***


 夕方。 定時で退社した私は、家の近所のスーパーに立ち寄った。 今日は妻から「卵が特売だから買ってきて」と頼まれているのだ。


「お、あったあった」


 特売コーナーには、Lサイズ卵1パック98円の山積みがあった。 しかし、そこはすでにおばちゃんたちの戦場と化していた。


「あら、私のが先よ!」


「何言ってるの、私がカゴに入れたじゃない!」


 殺気立つ主婦たち。 私はたじろいだ。 この中に割って入る勇気はない。 (うーん、諦めて定価で買うか……) そう思いかけた時だった。


「あら? あなた……」


 最前列にいたおばちゃんが、私に気づいて振り返った。 そして、なぜかハッとした顔をして、道を譲ってくれたのだ。


「どうぞ、お先に」


「えっ? いいんですか?」


「ええ、ええ。どうぞどうぞ」


 一人だけではない。 他のおばちゃんたちも、まるで貴賓を迎えるように道を開けてくれる。 私は恐縮しながら、最後の1パックを手に取った。


「あ、ありがとうございます……」


 私はペコペコと頭を下げてレジに向かった。 やっぱり今日はツイている。世の中、捨てたもんじゃないな。


 ――もちろん、そのおばちゃんたちの半分以上が、変装した女性SPだったことなど、知る由もない。 彼女たちはカゴの陰でインカムに囁いていた。 『ターゲット、卵確保。これよりレジへ誘導します』


 ***


 帰宅後。 私は食卓で、ゲットした卵を使った卵焼きを食べていた。


「パパ、今日すごいご機嫌だね」


 結衣が呆れたように言う。


「ああ。今日はいい一日だったよ。電車は座れたし、カツ定食は美味かったし、卵も安く買えたし」


「ふーん。……パパって、幸せのハードル低いよね」


「いいじゃないか。幸せなんて、そこら中に落ちてるもんだよ」


 私はビールを飲み干した。 平和だ。 この平穏な日常が、世界最強の組織によって必死に維持されている「人工的な平和」だとは露知らず。


「そういえば結衣。明日の文化祭、パパ有給取れたからな」


 私が笑顔で告げた瞬間。 結衣の箸がピタリと止まった。


「……え」


「ん? どうした? 嬉しくないのか?」


「……来るの?」


 結衣の声は、驚くほど低かった。 俯いていて表情は見えないが、なんだか空気が重い。


「おう。なんか社長が『佐藤君の家族サービスは社運に関わる』って言ってくれてさ」


「……」


「楽しみだなぁ。結衣のクラス、メイド喫茶だろ? パパ、一番高いオムライス頼んじゃおうかな」


 私は冗談めかして言ったが、結衣は笑わなかった。 それどころか、少し唇を噛み締め、何かを言いたげに私を見た後、ふいと視線を逸らした。


「……別に、無理して来なくていいよ」


「え?」


「大したことないから。……私、接客とか苦手だし。パパが来ても、構ってあげられないし」


 ボソボソと言うその横顔には、どこか暗い影が落ちているように見えた。


(……ははん、なるほど)


 私はニヤリとした。 これはアレだ。「思春期」というやつだ。 父親が学校に来るのが恥ずかしいのだ。友達に「お前のお父さんハゲてるじゃん」とか言われるのを気にしているのかもしれない。


「大丈夫だって。パパ、空気読んで端っこの方にいるから」


「……もう、知らない。勝手にすれば」


 結衣は食べかけの夕飯を残して、逃げるように自分の部屋に戻ってしまった。


「あーあ、行っちゃった」


 妻の恵子が困ったように笑う。


「難しい年頃ねぇ」


「まあな。でも、本心じゃ来てほしいはずさ」


 私はポジティブに解釈し、ビデオカメラを取り出した。 バッテリーの充電はバッチリだ。 可愛い娘の晴れ姿(ツンデレ含む)を、しっかりと記録に残さなくては。


「楽しみだなぁ」


 私は明日という日が、ただの楽しい休日になると信じて疑わなかった。


 結衣が抱えている「事情」になど、これっぽっちも気づかずに。 そう、明日もまた「平和で平凡な一日」が待っているはずだ。


 ***


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