第2章 勇者の入浴と、危険な「彼シャツ」
「……狭いな。ここは捕虜の収容施設か?」
それが、俺の部屋に入った勇者様の第一声だった。
都内某所、築三十五年、家賃四万五千円の木造アパート『ひだまり荘』。
六畳一間の和室に、申し訳程度のキッチンと三点ユニットバスがついただけの、俺の城だ。
「収容所じゃねえよ。日本の標準的な単身者用住居だ」
「嘘をつけ。アステリアの王都の馬小屋でも、もう少し天井が高かったぞ」
「馬小屋以下で悪かったな!」
セレスは興味深そうに、部屋の中をウロウロと歩き回っている。
ボロボロの鎧と、薄汚れた銀髪。
生活感あふれる俺の畳部屋に、ファンタジーの住人が土足で上がり込んでいる光景は、猛烈にシュールで頭が痛くなる。
「おい、土足厳禁だ。その鉄靴(グリーブ)を脱げ」
「なぜだ? 緊急時に即応できなくなるぞ」
「日本の床は柔らかいんだよ。畳が死ぬ」
俺は無理やりセレスを玄関(といっても一畳もないスペースだが)に座らせ、重厚な金属製のブーツを脱がせた。
ガシャリ、と重い音が響く。
剥き出しになった彼女の素足は、傷だらけだが白く、驚くほど小さい。
……こんな足で、あの大地を踏破してきたのか。
「ふん。まあいい。狭いということは、死角が少ないということだ。防衛拠点としては悪くない」
セレスは裸足でペタペタと畳の上を歩くと、部屋の
壁を背にする位置取り。
完全に戦場の癖だ。
「さて、まずはその血と泥を落とせ。風呂だ」
「フロ? ああ、湯浴みか。川はどこだ?」
「川なんかねえよ。こっちだ」
俺はユニットバスの扉を開けた。
湿気たカビと、安い芳香剤の匂いが混じる狭い空間。
セレスは中を覗き込み、目を白黒させた。
「なんだこの白い箱は。棺桶か?」
「
「オユ? 薪もないのにどうやって沸かすんだ?」
「こいつを使うんだよ」
俺は給湯パネルのスイッチを押し、シャワーの蛇口を捻った。
ボッ、という着火音と共に、ザァァァーッ! と勢いよく温水が噴き出す。
それを見た瞬間、セレスが腰の剣に手をかけ、バックステップで畳まで退避した。
「ッ!? 水魔法か! 罠だな!?」
「違うわ! ただのお湯だ! 攻撃判定はない!」
いちいち反応が大袈裟すぎる。
俺はため息をつきながら、蛇口を閉めた。
湯気が狭い浴室に充満し、鏡を曇らせる。
「いいか、ここを捻ればお湯が出る。こっちのボトルが髪用、こっちが体用だ。……使い方は分かるか?」
「……未知の
「よし。じゃあ俺は外にいるから、ゆっくり洗ってこい」
説明を終え、俺が浴室を出ようとした時だった。
ガチャリ、と硬質な音がした。
振り返ると、セレスが俺の目の前で――聖鎧の留め具に手をかけていた。
「……は?」
「ん? どうしたトウヤ。背中のバックルが錆びていて外れん。手伝ってくれ」
「お前、なんで俺がいる前で脱ごうとしてるんだよ!」
「どうしてって……入浴するなら装甲をパージするのは当然だろう?」
キョトンとした顔。
蒼い瞳に、一切の羞恥心がない。こいつ、本気で言ってるのか。
「いや、脱ぐのはいいけど! 俺が出て行ってから脱げよ! 異性だぞ!?」
「は? 何を今さら」
セレスは呆れたように肩をすくめた。
「戦場では同じ天幕で雑魚寝していただろう。川で行水した時だって、トウヤは見張りをしてくれていたじゃないか。何を恥ずかしがることがある」
「あれは! 極限状態だったからノーカンなんだよ! ここは平和な日本だ! 『恥じらい』という概念を思い出せ!」
「ハジライ……? それは防御力を上げるバフスキルか?」
「違う! もういい、俺は出るぞ!」
俺は顔を真っ赤にして、逃げるように背を向けた。
だが。
「待てトウヤ! 行くな!」
「なんだよ!」
「……この『シャワー』とかいう水魔法の制御、私には難しそうだ。温度調節をミスして火傷するかもしれん」
「…………」
セレスが不安そうにシャワーヘッドを見つめている。
……確かに。
異世界の住人に、いきなり昭和のバランス釜みたいな給湯器を使わせるのは危険か。熱湯が出たら大惨事だ。
それに、あの鎧の下にある傷の手当ても必要だろう。
「……はぁ。分かったよ」
俺は観念した。
ここで意地を張って、セレスに怪我をさせる方が面倒だ。
「俺が温度を見てやる。ただし!」
俺は棚からタオルをひっつかみ、セレスに投げつけた。
「絶対にこっちを向くなよ! あと、大事なところはそれで隠せ! いいな!」
♦︎
地獄の入浴タイムだった。
狭いユニットバスに、男と女が二人きり。
湿気と熱気で、思考が麻痺しそうになる。
俺は目を半開きにして(直視はできない)、セレスの背中にシャワーを当てていた。
銀色の髪が、お湯を含んで黒く濡れそぼる。
彼女が身じろぎするたびに、白い肌から水滴が滑り落ちる。
「うむ……トウヤの指使いは相変わらず絶妙だな。戦場の垢が落ちていくようだ」
「喋るな。集中力が切れる」
俺は無心でシャンプーを泡立てた。
指先に触れる頭皮の感触。
そして、視界に入ってくる背中。
そこには、無数の
肩口には、オークの斧をかばった時の裂傷痕。
脇腹には、魔法攻撃による火傷のケロイド。
その全てが、俺を守るために、あるいは俺の作戦を遂行するために、彼女がその身に刻んだ「勲章」だ。
普通の女子高生なら、絶対に持っていない傷。
綺麗な肌を台無しにする、醜い傷。
だけど俺には、それが何よりも尊く、そして痛々しく見えた。
「……背中、流すぞ」
「ああ、頼む」
俺はスポンジで、その傷痕をなぞるように洗った。
優しく、壊れ物を扱うように。
「……くすぐったいぞ、トウヤ」
「我慢しろ」
こいつの体は、俺が責任を持ってメンテナンスしなきゃならない。
それが、彼女を戦場に連れ回した「相棒」としての義務だ。
俺は湧き上がる劣情を理性の檻に叩き込み、ただの「洗浄マシーン」と化してその場を乗り切った。
「……おい、トウヤ。顔が赤いぞ? のぼせたか?」
「お湯が熱いだけだよ! さっさと上がれ!」
♦︎
風呂上がり。
さっぱりしたセレスは、文字通り「一皮むけた」ような輝きを放っていた。
血と泥が落ちた肌は、透き通るような白磁色。
濡れた銀髪からは、俺が普段使っている安いメンソールシャンプーの香りが漂っている。
問題は、着る服がないことだった。
彼女の鎧とインナーはボロボロで、血生臭くてとても着られる状態じゃない。
「仕方ない。とりあえず、これを着とけ」
俺はタンスから、一番大きめの黒いTシャツと、ジャージのハーフパンツを引っ張り出した。
セレスはそれを不思議そうに広げる。
「随分と薄くて柔らかい布だな。
「部屋着だからな。防御力なんてゼロでいいんだよ。ほら、着てみろ」
セレスは素直に袖を通した。
俺のサイズだから、当然ブカブカだ。
Tシャツの裾は太ももの半分まで届き、広い襟ぐりからは、華奢な鎖骨が露わになっている。
いわゆる「彼シャツ」状態。
……破壊力が強すぎる。
俺は視線のやり場に困り、カレンダーの方を向いた。
「うむ。動きやすいな。それに……」
セレスはTシャツの襟元を掴み、くんくん、と鼻を鳴らした。
「この服、トウヤの匂いがする」
「っ!? あー、悪い。洗濯はしてあるんだが、俺のお下がりだからな」
「いや、悪くない」
セレスはとろんとした目で、Tシャツに顔を埋めた。
「戦場で、トウヤの背中に隠れていた時と同じ匂いだ。……すごく、落ち着く」
「…………」
無自覚。
完全なる無自覚だ。
こいつは「安心する」と言っているだけで、そこにエロい意味も恋愛感情もない。ただの「巣の匂い」を確認する動物的な行動だ。
だからこそ、タチが悪い!
俺の心臓が早鐘を打っていることに気づきもしないで、セレスは無防備に大あくびをした。
「ふぁ……。風呂に入ったら急に眠気がきたな。トウヤ、寝床の確保を頼む」
「俺は床に布団を敷くから、お前はベッドを使え」
「断る」
即答だった。
セレスは鋭い目で俺を睨んだ。
「見知らぬ
「されねえよ! ここはオートロックもついた現代建築だぞ!」
「甘いな、トウヤ。
セレスは真剣な顔で俺に詰め寄ると、俺のジャージの裾をギュッと握った。
その指先が、わずかに震えている。
「頼む、トウヤ。……お前が近くにいないと、索敵範囲が確保できない」
それは建前だ。
こいつはただ、怖いのだ。
見知らぬ世界にたった一人。俺との繋がりが切れたら、自分がどこかへ消えてしまいそうな不安。
最強の勇者の仮面の下にある、迷子のような弱さ。
それを感じ取ってしまったら、俺にはもう拒否権なんてなかった。
「……はぁ。分かったよ」
「本当か!」
「ああ。ただし、背中合わせだ。いいな?」
「異存はない。一番効率的な陣形だ」
効率とかじゃない。
俺が俺の理性を保つための、ギリギリの防衛線だ。
数分後。
狭いシングルベッドの上で、俺たちは背中合わせに横になった。
軋むスプリング。
背中に感じる、セレスの体温。柔らかさ。
トクン、トクン、と彼女の心音が伝わってくる。
「……おやすみ、トウヤ」
「……おう、おやすみ」
すぐに、彼女からはスースーという安らかな寝息が聞こえてきた。
早すぎるだろ。どんだけ俺を信用してるんだ。
いや、俺を「男」として見ていないだけか。
俺は天井を見上げながら、これから始まる前途多難な生活を思って、深くため息をついた。
明日からは、生活費を稼ぐために動かなきゃならない。
現代日本には魔王はいないが、「家賃」と「食費」という最強の敵がいるのだから。
こうして、俺と元勇者の同居初夜は、何事もなく(精神的には大ダメージを負って)過ぎていった。
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