ミスター信号

谷 亜里砂

ミスター信号

 冬休みの宿題は、まあ、いつも通り手つかずだ。「少しは動け」と親がうるさいので、俺は愛しのストーブの前を離れることにした。ダウンのポケットに手を突っ込んだまま、駅前をぷらぷら歩く。


 駅前のバスターミナルは、中途半端に溶けた雪でグシャグシャだった。ぼんやりと次のバス停の屋根を眺めていたおれは、そこで奇妙な光景を目にした。


 歩道のど真ん中に、男の子がいた。歳は、俺と同じで十一歳くらい。なのに、格好がやばい。パンパンに膨れた、新品みたいな真っ赤なダウン。耳まで隠れる、真っ青なニット帽。防水っぽいがゴツすぎる、黄色いスノーブーツ。赤、青、黄色だ。おれは心の中で、そいつに『ミスター信号』と名付けた。


 ミスター信号は、敷石の隙間から噴き出している、いつもの消雪パイプの前にしゃがんでいた。そして、手を洗っていた。それだけじゃない。濡れた手を自分の頬に当てて、うっとりして言った。


「わあ、ちょっとだけあったかーい、みたいな気がする。こんなところにも温泉があるんだなあ」


「そんなわけないだろ……」


 心の声が、口から漏れた。ミスター信号は日焼けした肌の色で、ぱっちりした目でおれを見て、「えへっ」と笑った。それから急に、はっと気が付いたような顔になった。


「あっ、君も温泉であったまりたいの? でもあんまりあったかくないかも……」


「温泉じゃない、地下水だよ、地下水!」


 衝撃的だ。なんだこいつは。思わずはっきり言ってやったら、きょとんとしている。


「地下から温泉が出てるってこと?」


 究極的に、人の話をまるで聞いていない。それはもう、会話が面倒になるほどだ。おれはその場を去ることに決めた。


「おれ、もう行くわ。昼ごはん食べないといけないし」


「へええ、いいね。メニューは?」


「とろろ飯」


 ミスター信号はよく分かっていないような顔をして、消雪パイプの水に手をやっている。


「長いもをすったやつだよ」


 すると、ちょっと小馬鹿にしたような返事があった。


「長いも? え、田芋のこと?」


「長いもだって! 田芋ってなんだよ……」


「あれでしょ? トロトロになるやつ」


「うん、それ」


「やっぱ田芋じゃん!」


 勝ち誇ったような顔だ。なんだか腹が立つ。こいつの出身地では長いもを「田芋」と呼ぶのかと納得しかけたとき、ミスター信号が言った。


「火が通ると紫色になってねえ、美味しいよねえ」


 こいつは別の芋の話をしている。おれは確信した。芋の色が変わってたまるか。


「じゃあな」


 話の噛み合わないやつに用はない。颯爽と手を振って今度こそ去ろうとすると、ミスター信号は楽しそうにバイバイしながら言った。


「おしゃべりできてよかったよ。ありがとうね。ここに来てから、楽しいことばっかり! 明日は湖に行くんだけど、そこでスケートしたいなあって! それもとっても楽しみで……」


「死ぬに決まってるだろうが!」


 言葉を遮って、おれは叫んだ。ニコニコの笑顔のまま沈んでいくこいつの姿が、ありありと目に浮かぶ。


「ええ? お父さんも一緒に行くから大丈夫だよ」


 ダメだ、ここで教えてやらなかったら、おれは殺人罪で捕まってしまう。


「いいか、絶対に湖に下りるなよ? あの湖はうんと深いから凍らないと思うけど、もし凍っているように見えたとしても、絶対に下りるなよ? 氷が割れてバシャンだからな」


 口をぽかんと開けて、びっくりしたような表情だ。本当に初めて聞いたらしい。


「それはちょっと寒そう……」


「ちょっとどころじゃない」


 おれはだんだん疲れてきた。ミスター信号にはあまりにも、生きる力がなさすぎる。なぜだか心配になってくる。どうなってるんだ。


「あっ、ごめんね。お昼ごはんを食べに帰るんだよね!」


「うん……」


 力なく返事をした。本当に、そろそろ帰りたい。くるりと背を向け、おれは歩き出した。しかし数歩も進まないうちに、後ろから情けない声が降ってきた。


「あーっ」


 振り返ると、ミスター信号が派手にこけていた。そうだろうと思った。


 そして冬休み明け、おれの予感が的中した。くりくりの目をしたミスター信号は、おれのクラスの転入生になった。親の転勤でやってきたらしい。先生が言う。


「一家そろって、雪の降る地域に住むのは初めてということなので、親切に、なんでも教えてあげるように!」


 満面の笑みのミスター信号が、おれに向かって手を振っている。


 隣の席の子いわく、おれの白目は雪みたいに白いらしい。


(了)

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ミスター信号 谷 亜里砂 @Arisa_Tani

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