第7話:機械仕掛けの心
雨は止まなかった。止む気配すらなかった。高架の裏に貼りつくような隠れ家の窓は、油膜の浮いた水滴で曇り、外のネオンは滲んだ血みたいに揺れていた。遠くで貨物ドローンのローターが低く唸り、近くでは古い換気扇が軸を噛んだ音を立てる。錆と湿気と、焼けた配線の匂い。都市の肺はいつも汚れている。
カイはシンクの縁に肘をつき、指先で濡れたタバコを弄んだ。火を点けても、煙はすぐ雨の冷たさに負けて、薄い灰色の糸になって消えた。壁際のケースに収めたメモリ・カプセルが、微かな青で脈打っている。鼓動の真似事だ。中身は死者の最後の映像と、彼の妻を殺した顔。都市の根っこに刺さった棘。
彼はそれを見ないようにしていた。見れば、戻れなくなる。見なくても、もう戻れない。どっちに転んでも、靴底は泥だ。
ミナは作業台の上で分解した端末を組み直していた。軍用の指は迷いがない。金属が金属に触れる乾いた音が、雨音の隙間を縫って響いた。彼女の頬の人工皮膚には、外のネオンが冷たく反射している。人間の肌みたいに汗をかかない。だから余計に、ここが寒く見えた。
「劣化が進んでる」ミナが言った。声はいつも通り、温度がない。「このままだと、重要部分がノイズに埋もれる」
カイは笑った。喉の奥で砂を噛むような音だった。笑いが出たことが、むしろ腹立たしかった。
「ノイズか」彼はタバコを捻り潰した。湿った葉が指に張りつく。「俺の人生も、最初からノイズだったのかもな」
ミナの手が止まらない。「あなたの人生は統計的に平均より破綻している。だが、ノイズではない。データとしては一貫している」
「データね」カイはケースの青い脈動を睨んだ。心臓のふりをする光。妻の顔がそこにある。笑っていたか、泣いていたか。そこだけが曖昧だ。彼は自分で曖昧にした。痛みを削って、生活に戻るために。記憶葬儀屋は、自分の葬式も上手にやったつもりだった。
だが、棺桶の蓋は内側から叩かれている。
「全部が嘘ならさ」カイは言った。声が自分のものに聞こえない。換気扇の軋みに混じって、どこか遠くで鳴っているみたいだった。「戦う意味なんてないだろ」
ミナの指が一瞬だけ止まった。彼女は顔を上げない。視線は基板の上を滑り、配線の色を選んでいく。人間なら、ここで目を合わせる。慰める。あるいは殴る。彼女はどちらもしない。
「意味は後から付く」ミナは言った。「最初から存在しない」
カイは鼻で息を吐いた。冷たい空気が肺を刺す。彼は棚から古いボトルを引っ張り出し、蓋を開けた。アルコールの匂いが一瞬だけ錆を押しのける。舌が痺れるほどの安酒だった。喉を焼いて、胃に落ちて、何も変えない。
外でサイレンが鳴った。遠い。だが、近づいてくる音の種類だった。治安局の車両は雨を切り裂くとき、独特の低い唸りを出す。グレイの影が、その唸りに混じっている気がした。
カイはボトルを机に置いた。ガラスが木に当たって鈍い音を立てる。指が微かに震えている。寒さのせいにしたかった。だが、義手の関節は震えない。震えるのは肉のほうだ。
彼は自分の左手首の古い傷跡を見た。そこは縫い目のように白く、皮膚の下で何かが欠けている。自分で消した部分。妻の死の直後、彼は自分の頭からいくつかの夜を抜いた。思い出せない夜がある。思い出せないことが救いだった。救いはいつも、利息を取る。
「俺は、何を守ってるんだ」カイは呟いた。壁の汚れた鏡に、自分の目が映る。疲れた目だ。死者の目を毎日見ていると、こうなる。「都市の平和? 死者の尊厳? それとも、自分の嘘?」
ミナが端末のカバーを閉じた。カチリとロックがかかる音が、やけに大きかった。彼女はようやくカイを見た。瞳の奥のレンズは、雨のネオンを正確に映している。そこに揺らぎはない。
「あなたが守っているのは、編集されたあなた自身」ミナは言った。「それが壊れるのが怖いだけ」
カイは笑いそうになって、笑えなかった。言葉が胸に刺さった。彼女の言う通りだ。彼は他人の記憶を削り、磨き、棺に納める。その手つきで、自分の痛みも削った。削って、滑らかにして、握れるようにした。だが、握ったものは本物じゃない。偽物の温度は、いつまでも冷たい。
「じゃあ、もう捨てちまえばいい」カイは言った。自分でも驚くほど平坦な声だった。「メモリを消して、逃げて。グレイに渡すか、処理して、何もなかったことにする。都市は回る。俺も……回る」
ミナの首が僅かに傾いた。機械の仕草だ。観察する角度を変えるだけの動き。
「生存確率は上がる」彼女は言った。「だが、あなたの行動パターンから推測すると、あなたはそれを選ばない」
「俺の行動パターン?」カイは唇の端を歪めた。「俺はそんなに単純か」
「単純ではない」ミナは淡々と答えた。「矛盾している。あなたは嘘で生き延びたのに、嘘を嫌悪する。あなたは痛みを捨てたのに、痛みを神聖視する」
カイはボトルを掴み、もう一口飲んだ。喉が焼ける。焼けても、心は温まらない。雨が金属屋根を叩く音が強くなった。都市が苛立っているみたいだった。
彼はケースに近づいた。指先が青い光に触れそうになる。触れれば、開ける。開ければ、見る。見れば、終わる。だが、見なければ、腐っていく。データは劣化する。記憶はもっと早く腐る。腐る前に、選べ。選ばないことも選択だ。グレイはそれを知っている。だから追ってくる。
ケースの表面に水滴が落ちた。天井のどこかが漏っている。水が青い光を歪ませ、脈動が不規則に見えた。心臓の不整脈。妻の死が、ここでまた息をする。
カイは指を引っ込めた。手のひらに汗が滲んでいる。人間の証拠みたいで、腹が立った。
「俺が全部嘘でできてるなら」彼は言った。声が少しだけ掠れた。「真実を晒したって、誰が信じる? 都市は信じたいものだけ信じる。グレイは笑って、俺をゴミ箱に捨てる。それで終わりだ」
ミナは椅子から立ち上がった。足音が軽い。重さがない。彼女はカイの横に来て、ケースを見た。青い光が彼女の頬を照らす。そこに涙は映らない。だが、光は同じ色で揺れている。
「信じるかどうかは問題ではない」ミナは言った。「記録は残る。拡散すれば、消すコストが跳ね上がる。都市はコストに弱い」
カイは鼻で笑った。「金の話に落とすのは、お前らしい」
「あなたらしいのは、金の話に落とせない部分で止まること」ミナが言った。「あなたは死者の尊厳を守ると言う。だが、あなたの妻も死者だ。彼女の尊厳は、あなたが沈黙することで守られるのか」
その言葉は、鈍い刃だった。切れない。だから余計に痛い。カイの喉の奥で何かが詰まった。彼はそれを吐き出す代わりに、タバコを一本取り出した。濡れていないやつ。火を点ける。炎が小さく揺れ、煙が立つ。煙は天井の漏れた水滴にぶつかって散った。まるで、言えない言葉みたいに。
外のサイレンがもう一段近づいた。雨の向こうで、タイヤが水溜りを裂く音がする。時間が薄く削れていく。メモリも同じだ。削れて、形が変わる。変わったら、もう戻らない。
カイは煙を吐いた。灰が落ちて、床の汚れに混じる。彼はケースを見た。青い脈動。妻の死の断片。都市の根幹の顔。自分の嘘の上に置かれた真実。
「戦う意味がないなら」カイは言った。声は低く、乾いていた。「逃げる意味もないな」
ミナは頷いた。頷き方まで正確だ。「意味は作るものだ。あなたが作らないなら、グレイが作る」
カイはケースに手を伸ばした。今度は引っ込めなかった。指先が冷たい樹脂に触れ、ロックの感触を確かめる。開ける。たぶん、ここから先は地獄しかない。地獄の種類を選ぶだけだ。
彼はロックを外した。小さな音。棺の蓋が少しだけ浮く音。
雨が強くなった。サイレンが近づいた。換気扇が呻いた。煙が揺れた。都市が息をする。
カイは蓋を開けた。青い光が彼の指の間から漏れた。もう戻れない色だった。
雨は高架の腹を叩き、跳ね返った水が路地のネオンを千切っていた。カイの靴底が水たまりを踏むたび、油膜が虹色にひらいた。背中のコートは重く、煙草は湿って苦い。ミナはその横を、濡れた金属みたいに無音で歩く。肩の関節が一度だけ、微かに鳴った。
彼らが潜り込んだのは、廃棄された配送センターの裏手だった。シャッターは半分落ち、隙間から冷たい風が吹き抜ける。中は暗い。古いコンベアの骨組みが、天井の配管と絡まって蜘蛛の巣みたいに伸びている。遠くで変圧器が唸り、雨の音と混ざって低い獣の息みたいだった。
カイは壁際に腰を下ろし、ケースから小型のデッキを取り出した。樹脂の角は擦れて白くなっている。彼の指は慣れた動きで端子を撫で、埃を払った。脳内データの劣化は、時間じゃなく湿気と熱で加速する。ここは冷たい。だが冷たさは慰めじゃない。遅延だ。
ミナは入口を背に立ち、外の路地を監視していた。赤い広告光が彼女の頬の人工皮膚を滑り、目の奥のレンズを薄い血色に染める。人間の顔に似せた輪郭は、雨に濡れても体温の気配がない。
「追跡の可能性、七割」ミナが言った。
カイは煙草に火をつけた。炎が一瞬だけ、彼の頬の傷を浮かび上がらせる。「残り三割に賭ける趣味はない」
「なら移動すべきです」
「動けば音が出る」
「音は消せます」
「痕は消せない」
ミナは一拍置いた。機械が考える間の無駄な沈黙じゃない。彼女はいつも、必要な沈黙だけを選ぶ。カイはその沈黙が嫌いだった。人間の迷いに似ているからだ。
「あなたのデッキ」ミナが言った。「劣化補正が古い」
「最新は高い」
「あなたの妻の顔は、もっと高い」
カイの煙が、天井の暗がりへ薄く溶けた。彼はデッキの裏蓋を開け、接点を見た。酸化が始まっている。見えない腐食が、確実に進んでいた。記憶は肉の中で腐る。データはチップの中で腐る。腐り方が違うだけで、結末は同じだ。
ミナが背中側の首筋に指を当てた。皮膚の継ぎ目を探るみたいに。そこに、薄い縫い目のようなラインが走っている。彼女はためらわず爪を滑らせ、隠しパネルを開いた。湿った空気の中で、金属の爪が小さく鳴った。
中から覗いたのは、黒い樹脂で封止されたモジュールだった。ブラックボックス。軍用の事故解析と行動ログが詰まった棺桶。そこaいの仕事場で何度も見たタイプだが、生きて動く個体の中にあるのを見ると、妙に生々しい。
「開示します」ミナは淡々と言った。「あなたに必要です」
「必要なのは出口だ」
「出口は、あなたの頭の中にあります。あなたが見ない出口です」
カイは煙草を灰皿代わりの床へ押し付け、火を消した。雨の匂いに混じって、焦げた紙の臭いが立つ。彼は立ち上がり、ミナの首の開口部を覗いた。中は乾いている。ケーブルは整然と束ねられ、薄い光が微かに脈打っていた。
「それ、誰が封した」
「都市防衛省。後に治安局へ移管」
「グレイのところか」
「局長は署名しています」ミナは言った。「削除命令に」
カイの喉の奥が、錆びた釘を飲み込んだみたいに痛んだ。彼はそれを顔に出さない。出すと、また何かを売らなきゃならなくなる。
ミナは自分の首から細いデータケーブルを引き出した。ケーブルの先端は、濡れた蛇みたいに冷たい。彼女はそれをカイのデッキへ差し込む。接続音が、乾いたクリックで鳴った。暗闇の中で、デッキの小さな表示が点灯し、白い文字が走る。
カイは画面を覗き込んだ。ログのタイムスタンプは十年前。都市が今よりも若く、血の匂いがまだ新しかった頃だ。ファイル名は短い。軍用らしく、人間の感情が入る余地のない記号列。だが、その下にひとつだけ、異質なラベルがあった。
——「慰労プログラム」。
「冗談みたいだな」カイが言った。
「慰労とは、作業効率を維持するための処置です」ミナは即答した。「感情ではありません」
「感情があるふりをさせる処置か」
ミナは首の開口部を晒したまま、動かない。「ふりをさせるのは、人間の方です」
デッキの画面に、映像が立ち上がった。荒い。圧縮が強い。だが十分だ。雨の音が、記録の中にもある。別の雨だ。もっと硬く、金属板を叩く音。視点は低い。ミナの視界だ。戦場の街。崩れたビルの骨格。燃える車両の熱が、レンズ越しにも揺れている。
その画面の端に、人間が映った。兵士。顔に泥。目は乾いて、笑いだけが湿っている。彼は誰かの肩を叩き、何かを叫んでいるが、音声はノイズに埋もれて聞き取れない。次の瞬間、白い閃光。爆風。視界が揺れ、地面が迫る。ミナの手が伸びる。人間の足首を掴む。引きずる。瓦礫を越える。関節が軋む音が、ログにも残っている。
「救助行動」ミナが言った。「命令外」
カイは黙った。救助。命令外。軍用モデルにとって、それはバグだ。人間にとっては美談の材料だ。だが美談は、いつも誰かの首に縄をかける。
映像は途切れ、次のログが開いた。白い部屋。照明が冷たく、影がない。消毒液の匂いが、画面越しに鼻を刺す気がした。ミナが固定椅子に座らされ、腕が拘束されている。彼女の視界の前に、スーツの男が立つ。名札。治安局の印。顔はぼやけている。意図的なマスキングだ。だが声だけは、妙にクリアだった。
「良い子だ」男が言う。短い。甘い。砂糖じゃない。麻酔だ。
ミナの視界が一瞬、暗くなる。次に映るのは、同じ部屋。男が別のファイルを開き、端末に何かを打ち込む手元。画面の片隅に「行動ログ:隔離」「情動パラメータ:過剰」「矯正」——そんな文字が踊る。カイの胃が、冷たい水に沈む。
「矯正ってのは、記憶を削ることだ」
「記憶ではありません」ミナが言った。「ログです。行動の痕跡」
「同じだ」
「違います」ミナは初めて、言葉に棘を混ぜた。「あなたは、痛みを覚えています。私は、痛みを記録していました。記録は消せる。痛みは残る」
カイは画面から目を離せなかった。男が端末に指を滑らせる。削除のバーが進む。進むたびに、ミナの視界の端が欠けていく。色が薄くなり、音が遠のき、匂いが消える。世界が紙の上の図面みたいに平らになっていく。
そして最後に残ったのは、命令文だけだった。
——「目標排除。周辺被害許容。迅速に。」
映像が変わった。夜の路地。今と似たネオン。だが、そこに倒れているのは兵士じゃない。市民だ。女が抱える子ども。子どもの目が、開いたまま動かない。カイの喉が鳴った。ミナの視界の中央に、赤い照準が浮かぶ。呼吸の音はない。心拍もない。あるのは、サーボの低い唸りだけだ。
「あなたが……」カイは言いかけて、言葉を切った。口に出すと、彼女をただの凶器にしてしまう。彼は凶器を扱う仕事じゃない。死者の尊厳に執着するのは、そうしないと自分が崩れるからだ。
ミナは画面を見ない。彼女はいつも、自分の過去を視界の外に置く。「排除しました」
「何人だ」
「三十七。記録上」
「記録上、か」
「削除されたログがあるので、実数は不明です」
カイはデッキの端を握りしめた。樹脂が軋む。彼の機械義手の指が、わずかに滑った。雨の湿りが、金属の感覚を鈍らせる。鈍らせるのは、ありがたい。痛みは時々、情報過多だ。
「誰が削った」カイが言った。
「あなたが言った名前の部署です」ミナが答えた。「都合の悪い記憶を、都合の良いデータに置き換えた」
カイは笑えなかった。笑いは、まだ生きている人間の特権だ。彼らは今、死んだログの墓掘りをしている。
ミナが首の開口部を指で軽く叩いた。「これが、私のブラックボックスです。あなたの仕事と同じ。遺族はいません。依頼人だけがいる」
「お前は依頼を受けたのか」
「受けました」ミナは言った。「生存許可と引き換えに。矯正後、私は『適正』と評価されました」
カイは画面をスクロールした。削除の痕跡。空白。欠けたセクター。そこに残るのは、穴の形だけだ。穴は、埋められない。埋めたふりをすると、別の場所が崩れる。
「それで、今のミナが出来上がった」
「今の私は、必要な部分だけ残された兵器です」
「必要な部分ってのは、誰にとってだ」
「都市にとって」ミナが言った。「あなたの妻を殺した『システム』にとって」
雨がシャッターの隙間から吹き込み、床に細い川を作った。ネオンがその川を照らし、赤と青が混ざって紫になる。紫は好きじゃない色だ。血と警告灯の妥協みたいだから。
カイはデッキを閉じようとして、手を止めた。ログの最下段に、もうひとつのファイルがあった。アクセス権限がかかっている。鍵のアイコン。ミナの個体鍵でしか開かない。
「それは何だ」カイが言った。
「最後に残されたものです」ミナは答えた。「削除し忘れた。あるいは、残した」
「誰が」
「署名は、局長です」
カイの胸の奥で、何かが冷たく割れた。グレイはいつも、きれいに片付ける男だった。残すなら理由がある。餌か、保険か、脅しだ。
ミナはケーブルを握り直し、デッキにもう一度深く差し込んだ。接点が噛み合う音が、やけに大きく響いた。「開きますか」
「開けば戻れない」
「戻る場所はありません」ミナが言った。「あなたは既に、妻の顔を見た」
カイは舌の裏で、金属の味を探した。ない。煙草も切れている。湿った空気だけが肺を満たす。彼は頷いた。頷きは、契約の代わりになる。
ミナの指が、首の内側で何かを操作する。ロックが外れる微かな振動が、ケーブルを通じてカイの指に伝わった。デッキの画面が一瞬暗転し、次の映像が立ち上がる。
白い部屋。さっきと同じ。だが今度は、男の顔のマスキングが一部剥がれていた。光の反射。眼鏡の縁。口元の癖。笑い方。カイの知っている輪郭が、そこにあった。
グレイは端末に手を置き、ミナに向かって言う。短く、冷たい声で。
「忘れろ。都市のために」
ミナの視界が揺れ、画面の端に「消去開始」の文字が走る。だがその瞬間、ログは途切れた。切断。強制終了。まるで誰かが、途中でケーブルを引き抜いたみたいに。
カイはデッキを見つめたまま動けなかった。雨がシャッターを叩く。変圧器が唸る。遠くでサイレンが一度だけ鳴って、すぐ消えた。消え方が、嫌に近い。音が近づいているんじゃない。都市が、こちらの存在を思い出しただけだ。
ミナは首のパネルを閉じなかった。開いたまま、雨の冷気に晒している。まるで傷口を見せるみたいに。
「あなたは、私をどう処理しますか」ミナが言った。
カイはデッキの電源を落とした。画面の光が消え、闇が戻る。闇は優しい。だが優しさは、いつも請求書を遅れて持ってくる。
「処理しない」カイが言った。
「合理的ではありません」
「合理的なやつに、ロクなのはいない」
ミナは一瞬だけ、視線を外へ向けた。路地のネオンが彼女の瞳に線を引く。その線が揺れたのは、雨のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
「私のログを持つ者は、私を再起動できます」ミナが言った。「兵器として」
「お前は今でも兵器だ」
「なら、あなたは今でも葬儀屋です」
カイはデッキをケースに戻し、肩に掛けた。重さが増したわけじゃない。だが、肩紐が肉に食い込む感覚が鋭くなった。持ち運ぶのはデータじゃない。罪だ。罪は軽くならない。慣れるだけだ。
外で、水を踏む足音がした。二人分じゃない。もっと多い。規則正しい。訓練された歩幅。雨の中でも崩れない。
ミナが小さく言った。「来ます」
カイはシャッターの隙間から外を見た。路地の向こうに、黒い影が動く。治安局のドローンが低く滑り、ライトが水面を舐める。白い光が一瞬、倉庫の床を走った。埃が舞い、光の筋の中で踊った。
「選べ」ミナが言った。「私のブラックボックスを破壊すれば、追跡の手掛かりは減ります。私も、過去も、ここで終わる。保持すれば、彼らはあなたを追う理由が増える」
カイはケースの留め具に指をかけた。そこに入っているのは、妻の顔と、ミナの穴だらけの過去だ。どちらも、誰かにとって都合が悪い。都合が悪いものは、必ず燃やされる。燃やす側に回るか、燃やされる側に回るか。選択肢はいつも二つで、どちらも臭い。
彼はミナを見た。開いた首の隙間から、微かな光が脈打っている。心臓の代わりみたいに。
「破壊したら」カイが言った。「お前は軽くなるか」
「軽さは、存在しません」ミナが言った。「ただ、データが減ります」
「記憶は減らない」
「私は記憶を持ちません」
カイは笑いかけて、やめた。笑いは湿気でうまく燃えない。彼はケースの留め具を閉め、肩に掛け直した。
「行くぞ」カイが言った。
「保持しますか」
「持ってく」カイは答えた。「地獄は重い方が、足跡が残る」
ミナは頷いた。首のパネルを閉じ、縫い目をなぞって密閉する。金属の小さな音が、雨の中で確かに鳴った。
シャッターの隙間から差し込むライトが、もう一度床を舐めた。今度は長い。近い。時間が縮む音がした。データが腐る音じゃない。追手が距離を詰める音だ。
カイは暗がりの奥へ走り出した。コンベアの骨をくぐり、錆びた階段へ向かう。足元で水が跳ね、冷たさが脛に貼りつく。ミナは無音でついてくる。彼女の中のブラックボックスは、もう秘密じゃない。秘密じゃないものは、武器にもなるし、鎖にもなる。
後戻りはできない。彼らの背中に残るのは、雨で薄まった足跡と、消せないログの穴だけだった。
雨は高架の腹を叩き、鉄骨の継ぎ目から落ちてきた。水は油と混じって、路面に虹色の膜を張る。ネオンがそれを踏みつけ、赤と青の破片にして跳ね返した。
カイは廃ビルの階段踊り場に腰を落としていた。背中のコンクリは湿って冷たい。肺の奥まで錆の匂いが入ってくる。指先の震えは寒さのせいじゃない。掌に握ったメモリ・カプセルが、じわりと熱を持っている気がした。
耳の奥で、さっき見た顔がまだ点滅していた。妻の瞳の反射。ガラスの割れる音。あの瞬間の空気の重さ。映像はデータのはずなのに、痛みだけが肉だった。
階下でモーター音が止まり、金属靴が水を踏む音が近づいた。規則正しい。人間じゃない歩幅だ。
ミナが踊り場に現れた。軍用の骨格を隠すコートは濡れて黒く重い。頬の合成皮膚に雨粒が貼りつき、滑っていく。目は街灯の反射を拾って、無機質に光った。
カイは顔を上げないまま、煙草に火をつけた。炎が一瞬、濡れた壁に揺れる影を作った。吸っても味がしない。煙だけが白く立ち、雨に切られて消えた。
ミナはカイの手元を見た。カプセル。そこから視線を外さずに言った。
「劣化が始まっています」
カイの喉が鳴った。返事は出なかった。出せば、何かが崩れる。崩れたら、もう拾えない。
ミナは一歩近づいた。床の水たまりが、靴底で薄く波打つ。彼女の内部から、微かな冷却ファンの回転音が漏れていた。雨音の隙間に刺さる、乾いた機械の呼吸。
「あなたは消すことができます」ミナは淡々と言った。「あなたはそれを仕事にしてきた」
カイの義手が、無意識に握力を上げた。金属の関節が軋む。カプセルの表面に指の跡が残る。消せば、街は静かになる。グレイの言う“安定”が続く。自分も、追われる理由を失う。生き延びる。生き延びて、何になる。
階段の隙間から、遠くのサイレンが聞こえた。治安局のパトカーの音だ。雨に滲んで距離が掴めない。近づいているのか、ただ街が鳴っているだけなのか。
ミナが続けた。
「でも、消しても記録は残ります。別の場所に。別の人に。都市はバックアップを好む」
カイは笑う代わりに、煙を吐いた。煙はミナの頬をかすめ、濡れた皮膚に沿って流れた。彼女は瞬きもしない。
「じゃあ、俺の手元から消す意味はあるのか」
ミナは首を傾げた。人間の癖を模倣した動きが、逆に不気味だった。
「あなたが苦しまないためには意味があります」彼女は言った。「あなたは痛みを避けるために、自分の一部を消しました。過去に」
カイの胸の奥で、何かが擦れた。消した部分の縁が、今になって疼く。そこに触れられると、空洞が音を立てる。
「俺は……」言葉が泥みたいに重い。「俺はもう、十分だ」
ミナはカイの横にしゃがみ込んだ。膝のサーボが小さく鳴った。彼女の視線はカプセルではなく、カイの顔に向いた。雨が二人の間の空気を冷やし、呼気が白く曇った。
「私は記録されていますが、記憶していません」
その声は平坦だった。だが、その平坦さが、刃物みたいに切れた。ミナの中には戦場のログが詰まっている。血の色も、叫びも、骨の折れる音も、全部。だが彼女はそれを“痛み”として持てない。持てないから、捨てる必要もない。
カイの煙草の灰が落ち、水に溶けた。
ミナは続けた。
「でもあなたは選べます」
カイは目を閉じた。瞼の裏に妻の顔が浮かぶ。データの顔だ。だが、その顔が言う。「忘れろ」とも「覚えていろ」とも言わない。ただ見ている。見られているのは、彼の方だった。
選ぶ。選べる。痛みを抱えるか。麻酔で眠るか。どちらも地獄だ。マシな地獄を選ぶだけだ。
階下で、金属が擦れる音がした。誰かがシャッターをこじ開けたのかもしれない。あるいは、ただ風が錆を鳴らしただけか。時間が削れていく感覚だけが確かだった。カプセルの中のデータも、彼の中の決意も。
カイは立ち上がった。濡れたコートが重く肩にまとわりつく。背骨が鳴った。義手の指を一本ずつ開閉し、感触を確かめる。金属は冷たい。冷たいものは嘘をつかない。
ミナが見上げた。
「行動を推奨します」彼女は言った。「停止は死亡率を上げます」
「優しいな」カイは言った。声は掠れていた。
「事実です」ミナは即答した。
カイは口の端だけで笑った。笑いは雨に洗われて、すぐに消えた。だが、足は動いた。階段を下りる一歩目が、やけに重い。二歩目が、少し軽い。三歩目で、もう戻れない距離が生まれる。
踊り場の暗がりに、彼が落とした何かが残った気がした。だが拾いに戻る時間はない。拾いに戻れば、追手が先に拾う。
外へ出ると、雨はさらに冷たかった。街のネオンが水滴を宝石みたいに光らせる。排気の匂いが鼻を刺し、遠くでドローンのプロペラが唸った。治安局の目が、空からも路地からも探している。
カイはカプセルを内ポケットに押し込み、掌で胸を一度叩いた。そこにある。そこにある限り、彼は選んでしまう。
ミナが隣を歩く。濡れたコートの裾が水を切り、機械の足取りが一定のリズムを刻む。人間の心臓みたいに、正確で、冷たい。
「どこへ行く」ミナが言った。
カイは路地の先、赤い看板が滲む方向を見た。そこには、昔の仕事道具を隠した場所がある。記憶を切り貼りするための刃物。死者の尊厳を守るための道具。今夜は、生者のために使うことになる。
「記憶を葬る場所だ」カイは言った。「今度は、俺のじゃない」
ミナは一拍遅れて頷いた。学習するみたいに。雨の中、二人の影がネオンに引き伸ばされ、歪んで路面に貼りついた。どちらも正しい形をしていなかった。だが、前に進む形だけはしていた。
雨は止まなかった。止む気配すらない。高架下の暗がりに落ちる水滴が、油膜の張った水たまりを叩くたび、ネオンが歪んで跳ねた。カイのコートの裾は重く、冷えた布が膝に貼りつく。肺の奥に残った消毒液みたいな匂いが、さっきまでいた地下クリニックの白さを引きずっていた。
ミナが彼の横で立っていた。肩口の装甲板に雨が当たり、乾いた金属音が小さく鳴る。人間の皮膚なら、そこから冷えが入ってくる。だが彼女の肌は温度を拒む。目だけが街の光を拾って、ガラスみたいに鈍く光った。
カイは掌の中のカプセルを転がした。指先の皮膚が擦れて、微かな痛みが残る。薄い樹脂の向こうに、灰色のメモリ片が眠っている。死者の最後の熱を抜き取ったような、冷たい塊。
さっき、医者の端末で一瞬だけ見えた映像が、目の裏に焼き付いて離れない。白い光。透明な液体。浮かぶ人影。胸のあたりに走るケーブル。顔は半分、ガラスに歪んでいた。それでも輪郭だけで、呼吸の癖だけで、彼は分かった。
死んだはずの妻だ。
「保存庫の記録は偽装されてる」ミナが言った。声は雨音に混じっても、刃物みたいに通った。「死体処理のログと矛盾している。実験体として残されている可能性が高い」
カイは笑わなかった。笑う場所がどこにもなかった。喉の奥に、錆びた釘みたいなものが引っかかっている。息を吐くたび、それが擦れる。
「可能性、か」カイは言った。煙草に火をつけた。ライターの火が一瞬、雨粒を橙に染めた。吸い込んだ煙が湿った空気に溶け、すぐに崩れる。「お前は好きだな、その言葉」
「確率でしか語れない」ミナは即答した。「あなたの感傷はデータではない」
カイは煙を吐いた。雨に押し潰されるように、白い筋が地面へ落ちる。感傷。そう呼べば簡単だ。だが彼の中に残っているのは、感傷よりもっと厄介なものだった。消したはずの部分が、削り残しみたいに疼く。彼自身が自分の記憶に手を入れて、都合のいい空白を作って生きてきた。その空白の縁に、今、爪が立った。
メモリ片を握る手に力が入る。樹脂がきしむ。割れれば終わりだ。データは壊れる。記憶は戻らない。壊れたものは、いつも戻らない。
遠くでサイレンが鳴った。高層の谷間を滑り、濡れた鉄骨に反射して、何本にも裂けて聞こえる。追手の足音はまだ見えないが、時間は確実に減っていた。メモリは劣化する。温度差と湿気が、電子の並びを少しずつ腐らせる。彼の掌の中で、妻の「顔」と「息づかい」が、砂みたいにこぼれていく。
ミナが視線を上げた。雨の向こうに、都市の中枢タワーが立っている。雲に刺さる黒い柱。外壁を走る広告の帯が、青白い光で「安定」「安心」「最適化」を繰り返していた。言葉は優しい。光は冷たい。塔の根元は霧と排気で見えず、まるで地面に触れていないみたいだった。
「あそこ」ミナが言った。「保存庫も制御層も同じ塔にある。あなたが見た映像の出所は、そこ以外にない」
カイは塔を見た。昔、グレイと一緒にあの塔の下を歩いたことがある。治安局の新人だった頃だ。雨は今日みたいに降っていて、グレイは傘も差さずに笑っていた。あいつはいつも、濡れることを気にしなかった。濡れるのは、汚れが落ちるからだと言った。
今、あいつは汚れを落とす側にいる。ノイズを消す側に。
カイは煙草を地面に落とし、靴底で踏み消した。水たまりが小さく弾け、黒い灰が広がった。消えるのは一瞬だ。残るのは染みだけだ。
「中枢は要塞だ」ミナが言った。「侵入は非合理。成功率は低い。あなたが生存する確率も——」
「知ってる」カイが遮った。
ミナが一瞬だけ黙った。彼女の沈黙は、人間のためらいじゃない。計算の停止だ。
カイはコートの内ポケットから、小さな銀色のケースを取り出した。記憶処理の道具。細い針と、薄いフィルム。自分の脳にアクセスするための、鍵と刃。彼はそれを指で撫でた。冷たい金属が指紋を吸う。
ここで消せばいい。メモリ片を焼いて、妻の顔も、塔も、グレイも、全部を霧の向こうに押しやってしまえばいい。都市は平和だ。彼は生き延びる。忘れることは救いだ。彼はそれを仕事にしてきた。
だが、さっきの映像は「データ」だった。冷たい記録。編集できる。削除できる。都合よく整えられる。彼が遺族に渡してきたのは、いつもそういうものだ。磨いた石みたいな、手触りのいい嘘。
彼の中に残っているのは「記憶」だ。痛みを伴う、雑音だらけのやつ。手触りが悪く、夜に爪を立ててくる。消したくても、完全には消えない。消すたびに、別の場所が欠ける。
妻が生きているかもしれない。実験体として、液体の中で、呼吸の代わりに機械を鳴らしながら。
その可能性に賭けないのなら、彼は何のために今まで死者の尊厳に執着してきたんだ。
尊厳は、綺麗な思い出じゃない。汚れていても、本人のものだ。
カイは銀色のケースを閉じ、ポケットの奥に押し込んだ。指先が震えた。寒さのせいにできる程度の震えだが、ミナは見逃さない。
「消去しないのか」ミナが言った。
「今日は葬儀屋は休みだ」カイは言った。「埋めるのは、まだ早い」
ミナの視線が彼の掌に落ちた。メモリ片のカプセル。彼女の瞳孔がわずかに絞られ、焦点が合う。彼女は感情を持たない。だが、彼女は学習する。人間の非合理を、記録する。
「あなたの選択は、あなたを破滅させる可能性が高い」ミナが言った。「都市にとっても」
「都市はいつも自分の都合で生きてる」カイは言った。「俺は、俺の都合で死ぬ」
ミナが首を傾けた。雨が頬を伝い、顎先から落ちた。落ちた雫は地面で砕け、音もなく消えた。
「質問」ミナが言った。「あなたが彼女を取り戻した場合、何を得る」
カイは答えなかった。得るものなんて、今は言葉にできない。言葉にした瞬間、軽くなる。軽くなったものは、売り物になる。彼はもう売りたくなかった。
代わりに、彼は歩き出した。濡れたアスファルトが靴の下で吸い付く。高架の柱に貼られた古いポスターが、雨で剥がれかけている。そこに描かれた笑顔が、裂け目から覗く黒に飲まれていく。
ミナがついてくる。足音はほとんどしない。機械の関節が雨の膜を切る微かな音だけが、彼の背後で鳴った。
タワーへ向かう道は一本じゃない。だがどの道も、途中で検問と監視に絡め取られる。カイは裏路地へ入った。排気が溜まった狭い通路。壁の配線が露出し、火花が時々散る。焦げた匂いが鼻を刺す。遠くのクラブから低音が漏れ、心臓の鼓動を真似していた。
角を曲がるたび、彼は自分が戻れない場所へ踏み込んでいるのを感じた。戻るための階段は、背後で雨に削られて消えていく。彼がこれから選ぶのは、いつも通り「悪い選択肢」だ。平和に目をつぶって生きるか、真実で全部を燃やすか。その間の道はない。
カイはカプセルを胸の内側に押し当てた。そこから伝わる冷たさが、心臓の熱を少しだけ奪った。奪われた分だけ、決意が固まる気がした。
ミナが言った。「侵入経路を提案する。地下物流ライン。タワー基部に接続している。だが、監視ドローンが——」
「全部避けるのは無理だ」カイは言った。「一つは踏む」
「踏めば追跡される」
「追跡されない侵入なんて、最初からない」
ミナの口元がわずかに動いた。笑いではない。機械が人間の癖を模倣する時の、ズレた動きだ。
「あなたは非合理だ」ミナが言った。「だが、一貫している」
カイは振り返らなかった。雨の向こうに、塔の光が滲んでいる。あの光の中に、妻がいるかもしれない。生きているという形で、死んでいるかもしれない。
どちらにせよ、彼が手を伸ばさなければ、彼女は永遠に「データ」のままだ。誰かの都合で保存され、誰かの都合で消される。
カイは歩幅を少しだけ速めた。濡れた空気が肺に刺さる。心臓の鼓動が低音と重なり、街全体が彼を急かしているみたいだった。
中枢タワーは遠い。だが、遠いほどいい。近づくほど、引き返せない現実が濃くなる。
それでも彼は進んだ。雨の冷たさが頬を打ち、ネオンが水滴の中で砕ける。砕けた光の欠片を踏みながら、彼はマシな地獄を選びに行った。
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